ももういなくなっていた。船頭はやっと船底からはい出して来て、舟を漕いで北に向った。強い風が逆に吹きだしたので舟は進まなかった。と、その時不意に水の中から鉄錨《てつびょう》が浮いて出た。船頭は狼狽《ろうばい》しだした。
「毛将軍がお出でましになった。」
 附近を往来していた舟の乗客は皆船底につッぷしてしまった。間もなく水の中に一本の木が立っていて、それが揺れ動いているのが見えた。客も船頭も色を失った。
「南将軍がまたお出ましになったぞ。」
 波が急に湧きたって来て、その波頭が空の陽をかくすように見えた。舳先《へさき》を並べていたたくさんの舟はみるみる漂わされて別れ別れになった。柳の舟では柳が界方をさしあげて危坐していたので、山のような波も舟に近くなると消えてしまった。そこで柳は無事に故郷へ帰ることができたが、いつも人に向って舟の中の不思議なことを話して、そしてそれにつけ加えていった。
「舟の中の女は、はっきりとその顔は見なかったが、裙《もすそ》の下の二本の足は、人間の世にはないものだったよ。」
 後に柳は事情があって武昌《ぶしょう》にいった。その時|崔《さい》という老婆が水晶の界方を一つ持っていて、これと寸分違わない物を持っている者があるなら女《むすめ》を嫁にやろうといった。柳はそれを人から聴いて不思議に思って、彼の界方を持っていった。
 老婆は喜んで面会した。そして女を呼んで見せた。それは十五、六の綺麗《きれい》な女であった。女は一度お辞儀をするかと思うともう幃《まく》の中へ入っていった。柳の魂は揺れ動いた。
「私が持っている物と、こちらの物と似ておりましょうか。」
 そこで双方が界方を出しあって較べた。その長さも色合もすこしも違わないものであった。老婆は喜んで柳の住所を問い、女を後から伴《つ》れてゆくから、輿《くるま》に乗って早く帰って仕度をしておけ、そして界方を印に遺しておけといった。柳は界方を遺《のこ》しておくのが不安であるからすぐ承知しなかった。老婆は笑った。
「旦那《だんな》もあまり心が小さいじゃありませんか。私がどうして一つの界方位とって逃げるものですか。」
 柳はしかたなしに界方を置いて帰っていったが、どうも不安でたまらないから、輿を傭《やと》って急いで老婆の家へ取りにいった。老婆の家は空《から》になってだれもいなかった。柳は駭《おどろ》いて、その附近
前へ 次へ
全5ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
田中 貢太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング