の家を一軒一軒訊いてみたが、だれも知ったものはなかった。陽《ひ》はもう西にまわっていた。柳は怒りと懊《なや》みで自分のことも忘れて帰って来た。途中で一つの輿とゆき違った。と、向うの輿の簾《すだれ》をあげて、
「旦那あまり遅いじゃありませんか。」
という者があった。それは崔であった。柳は安心して喜んだ。
「どこへいくのです。」
崔は笑っていった。
「あなたが、きっと、私を騙《かた》りと疑っていらっしゃるだろうと思って、あなたと別れた後で輿の便があったから、その時旦那も旅住居で、仕度ができなかろうと、女を送って、あなたの舟までいったのですよ。」
柳は崔の輿を返してもらおうとしたが崔がきかなかった。柳は崔が女を舟へ送ってあるというのも怪しいと思ったので、あたふたと帰っていった。舟には女が一人の婢を伴《つ》れて坐っていた。女は笑いながら柳を迎えた。翠《みどり》の襪《くつたび》、朱《あか》い履《くつ》、洞庭の舟の中で見た侍女の妝飾《そうしょく》とすこしも違わない女であった。柳は心で不思議に思って、そのあたりを歩きながら女に注意した。女は笑った。
「そんなに御覧になるが、まだ一度も御覧になったことはないのですか。」
柳はますます眼を近くにやった。襪の後には歯の痕《あと》が残っていた。柳は驚いていった。
「お前は織成か。」
女は口もとを掩《おお》って微《ひそ》かに笑った。柳は長揖《ちょうゆう》の礼をとっていった。
「お前は神か。早くほんとうのことをいってくれ、俺を惑《まど》わしてくれるな。」
女がいった。
「ほんとうのことを申しましょう。あなたが洞庭の舟の中でお遭いになったのは、洞庭の神様ですよ。洞庭の神様は、あなたの大きな才能を崇拝して、私をあなたに贈ることになりましたが、私は王妃に愛せられていましたから、帰って相談しました。私のあがりましたのは王妃の命であります。」
柳は喜んで手を洗い香を焚《た》いて、洞庭湖の方に向いて遥拝《ようはい》してから、女を伴れて帰った。後にまた武昌にいく時女が里がえりがしたいというので、同行して洞庭までいった。女は釵《かんざし》を抜いて水の中に投げた。と、見ると一|艘《そう》の舟が湖の中から出て来た。女はそれに飛び乗って鳥の飛ぶようにいったが、またたく間に見えなくなった。柳は舟の舳《へさき》に坐って小舟の消えた処をじっと見つめていた。
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