女でないと思つた。
向ふから鳥打を冠りインバを着た男がやつて来た。哲郎はこの男は刑事かなにかではないかと思つた。彼はさうして今女に話しかけやうとしたことを思ひ出して、もしあんな時に追つかけでもしてゐやうものなら、ひどい目に逢はされたかも判らないと思つた。彼はすこし気が咎めたが、しかし向ふの方に幸福が待つてゐるやうな気がするので、引つかへさうとする気もしなければ、其処のカフエーへ入らうとする気も起らなかつた。
夜店の後の街路には蜜柑の皮やバナナの皮が散らばつてゐた。哲郎は其処を歩きながら今の女は何処へ往つたらうと思つて、向ふの方を見た。向ふには薄暗い闇があるばかりで人影は見えなかつた。彼は女は何処かこのあたりの者であらうと思つた。
哲郎は戸の閉つた薔麦屋の[#「薔麦屋の」はママ]前へ来てゐた。微に優しい声で笑ふのが聞えた。彼はその方へと顔をやつた。若い女が電柱に身を隠すやうにして笑つてゐた。それは長い襟巻で口元を覆ふやうにした彼の女であつた。
「あ、」
哲郎はもう何も考へる必要はなかつた。彼は女の傍へと往つた。
「私は電車に乗つて帰るのが惜いやうな気がするもんだから、かうしてぶら
前へ
次へ
全13ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
田中 貢太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング