もなんの物音もしなかつた。哲郎はその物音のしないのが物足りなかつたが、しかし広小路へ来たといふ満足が彼の気持ちを傷つけなかつた。彼はとにかく向ふへ往かうと思つて、カフエーの方へと歩いた。
厩橋の方から来たらしい電車がやはりなんの音もさせないでやつて来るのが見えた。哲郎はゆつくりとレールの上を踏んで歩いた。と、後から来て彼の左側をすれすれに通つて向ふへ往かうとする者があつた。それは若い小柄な女であつた。女は振り返るやうにちよと白い顔を見せた。女は長い襟巻をしてゐた。
彼はすぐこの女はどうした女であらうと思つた。かうして十二時を過ぎてゐるのに一人で歩いてゐるところを見ると、決して正しい生活の女でないと思つた。さう思ふとともに彼は探してゐた物をあてたやうな気がした。
「もし、もし、」
彼は何か女にいつてみやうと思つた。と、女はまた白い顔をちらと見せた。
「路が判らなくて困つてるんですが、」
女の口元が笑ふやうになつて見えた。彼は安心して女の方へ寄らうとした。と、女の体はひらひらと蝶の飛ぶやうに向うへと往つて、もうカフエーの前を越えてゐた。彼は失望した。失望するとともに彼の女はある種の
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