ないと思った。
「それでも、初春の松の内を、血でお穢しなさるのはよろしくないと思いますが」
「そうか、さらば十五日過ぎてからにする」
 そう云うかと思うと主膳は小柄《こづか》を脱《ぬ》いて起ちあがり、いきなりお菊の右の手首を掴んで縁側に出て、その手を縁側に押しつけて中指を斬り落した。お菊は気絶してしまった。主膳はその態を見て心地よさそうに笑った。
「この女をどこかへ押し込めておけ」
 お菊の身体は若侍の一人に軽がると抱かれて台所の隅の空室《あきべや》に運ばれた。朋輩の婢達は遠くのほうからはらはらして見ているばかりでどうすることもできなかったが、お菊が空室の中へ入れられるとともに、皆でそっと往って介抱した。傷口をしばってやる者、水を汲んでやる者、食事を運んでやる者、それは哀れな女に対する心からの同情であったが、お菊は水も飲まなければ食事もしないで死んだ人のようになって考え込んでいた。
 そのお菊は数日して姿を消してしまった。主膳はお菊が逃げたと思ったので、酷《ひど》く怒って部下の与力同心を走らせて探さした。主膳はその時火付盗賊改め方をしていたのであった。しかし、お菊の行方は判らなかった。
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