見ていると、もうその女が門口からあたふたと出て来た。それは白娘子《はくじょうし》であった。
「この妖婦、また来て俺を苦しめようとするのか、今度はもう承知しない、つかまえて引きわたすからそう思え」
白娘子は眼で笑っていた。
「まあそんなにおっしゃらないで、私の云うことを聞いてくださいよ、二度もあなたをまきぞえにしてすみませんが、あの衣服と扇子は、私の前《せん》の夫の持っていたものですよ、決して怪しいものじゃありません、だから疑いが晴れたじゃありませんか」
「それじゃ、俺が王主人の所へ帰った時に、何故《なぜ》いなかったのだ」
「それは、あなたの帰りが遅いものですから、婢と二人で、あなたを探しに往ったところで、あの騒ぎでしょう、私は恐ろしくなったから、船で婢の母の兄弟のいる、この家へ来ていたのです」
許宣の白娘子に対する怒は解けた。許宣は白娘子に随いてその家へ往ってそこに一泊したが、それからまた元のとおりの夫婦となった。
そのうちに李克用の誕生日が来た。許宣夫婦も進物を持って李家へ祝いに往った。李克用は筵席《えんせき》を按排《あんばい》して親友や知人を招いていた。
この李克用は一個の好色漢であった。彼は白娘子を一眼見てから忽《たちま》ちその本性を現わした。白娘子が東厠《べんじょ》へ往ったことを知ると、そっと席をはずして後からつけて往った。そして、花のような女のその中にいることを想像してその内へ入った。内には桶《おけ》の胴のような大きな白い蛇がとぐろを捲《ま》いていた。その蛇は両眼は灯盞《かわらけ》のように大きくて金光《きんこう》を放って輝いていた。李克用はびっくりして逃げ出したが逃げる拍子に躓《つまず》いて倒れてしまった。
李克用の家に養われている娘が李克用の倒れて気絶しているのを見つけた。家の内は大騒ぎになって皆が集まって来た。そして薬を飲ましなどしているとやっと気が注いた。家の者がどうしたかと云って訊くと、彼は連日の疲れで体を痛めたためだと云った。
李克用の気もちが好くなったので、宴席も元のとおりになったが、やがてその席も終って客は帰って往った。白娘子はいつの間にか家へ帰っていたが、許宣に話したいことがあるのかそっと舗《みせ》へやって来た。
「今晩は、みょうに気もちがわるいから、来たのですよ」
「今晩は御馳走《ごちそう》になって宜い気もちじゃないか」
「宜い気もちじゃありませんよ、あなたは、ここの旦那を老実な方だと云いましたが、どうしてそうじゃありませんよ、私が東厠《べんじょ》へ往ってると、後からつけて来て手籠《てご》めにしようとしたのです、ほんとに厭《いや》な方ですよ」
「しかし、べつにどうせられたと云うでもなかろう、まあ宜いじゃないか、早く帰ってお休みよ」
「でも、私はあの旦那が恐いわ、これからさき、またどんなことをせられるか判らないのですもの、それよりか、私が二三十両持ってますから、ここを出て、碼頭《はとば》のあたりで小さな薬舗を開こうじゃありませんか」
許宣も人の家の主管《ばんとう》をして身を縛られるよりも、自由に己《じぶん》で舗《みせ》を持ちたかった。彼は白娘子の詞《ことば》に動かされた。
「そうだな、小さな舗が持てるなら、そりゃその方が宜いが」
「では持とうじゃありませんか」
「そうだね、持っても宜いな、じゃ、暇をくれるかくれないか、明日旦那に願ってみよう」
許宣は翌日李克用に相談した。李克用は己の弱点があるうえに奇怪な目に逢っているので、許宣の云うことに反対しなかった。そこで許宣は白娘子と二人で碼頭の傍へ手ごろの家を借りて薬舗をはじめた。許宣ははじめて一家の主人となっておちつくことができた。
七月の七日になった。その日は英烈竜王《りゅうおう》の生日《えんにち》であった。許宣は金山寺《きんざんじ》へ焼香に往きたいと思って再三白娘子に同行を勧めたが白娘子は往かなかった。
「あなた一人で往っていらっしゃい、しかし、方丈《ほうじょう》へだけは往ってはいけないですよ、あすこには坊主が説経してますから、きっと布施を執られますよ、宜いですか、きっと方丈へ往ってはいけないですよ」
許宣は独りで往くことにして、舟を雇い、上流約一里の所にある金山寺の島山《しまやま》へ往った。揚子江の赤濁《あかにご》りのした流れを上下して金山寺へ往来する参詣人の舟が水鳥の群れたように浮んでいた。京口瓜州一水《けいこうかしゅういっすい》の間、前岸《ぜんがん》瓜州の楊柳《ようりゅう》は青々として見えた。
許宣は金山寺へあがって竜王堂へ往き、そこで焼香をすまして、あちらこちらを歩いているうちに、多くの参詣人が和尚の説経を聞いているところへ往った。許宣はここが白娘子の往ってはいけないと云った方丈だと思った。彼は急いで方丈の中を出て往った。許宣の引返そうとする顔を説経していた和尚がちらと見た。
「あの眼に妖気がある、あれを呼べ」
侍者の一人が呼びに往ったが、許宣はもう山をおりかけていたので聞えなかった。すると和尚はいきなり禅杖《ぜんじょう》を持ってたちあがるなり、許宣を追っかけて往った。
山の麓《ふもと》では大風が起って波が出たので、参詣人は舟に乗ることができずに困っていた。山をおりた許宣もその人びとに交って岸に立って風の静まるのを待っていた。と、一艘《いっそう》の小舟がその風の中を平気で乗切って来て陸《おか》へ着けかけた。許宣は神業のような舟だと思って、ふいと見ると、その中に白娘子と小婢《じょちゅう》の二人が顔を見せていた。その白娘子と許宣の眼が合った。
「あなた、早くお乗りなさい、風が吹きだしたから、あなたをお迎いに来たのです」
舟は同時に陸へ着いた。許宣は喜んで水際へおりた。許宣の後には許宣を追っかけて来た和尚がいた。
「この※[#「薛/子」、第3水準1−47−55]畜《ちくしょう》ここへ来やがって何をしようと云うのだ」
和尚は舟の中を見て怒鳴りながら禅杖を揮《ふ》りあげた。と、白娘子と小婢はそのまま水の中へもんどり打って飛び込んでしまった。許宣はびっくりして眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》った。そうして許宣は夢が覚めたようになった。
「あの和尚さんは、なんと云う和尚さんでしょう」
許宣は気が注いて傍の人に訊いた。
「あれが、法海禅師《ほうかいぜんし》様だ、活仏《いきぼとけ》だ」
和尚の侍者が許宣を呼びに来た。許宣は伴れられて和尚の前へ往った。
「お前さんは、あの女達とどこであわしゃった」
許宣はそこではじめからのことを話した。和尚はそれを聞いて云った。
「宿縁だ、しかし、お前さんの慾念《よくねん》が深いからだ、だが、災難はもうすぎたらしい、これから杭州に帰って、修身立命の人にならなくてはいけない、もし再びこんなことがあったら、湖南《こなん》の浄慈寺《じょうじじ》に来てわしを尋ねるが宜い、今、わしが偈《げ》を云って置くから、覚えているが宜い、本《もと》これ妖蛇《ようじゃ》婦人に変ず、西湖《せいこ》岸上《がんじょう》婦身《ふみ》を売る、汝《なんじ》慾《よく》重きに因《よ》って他計《たけい》に遭《あ》う、難《なん》有れば湖南《こなん》老僧を見よ、宜いかね、この偈を忘れないように」
許宣は法海禅師に別れて、身顫《みぶる》いしながら帰り、針子橋の李克用の家へ往った。李克用は許宣から白娘子の話を聞いて、はじめて誕生日の夜に見た妖蛇の話をした。そこで許宣は碼頭《はとば》の家を畳んで、再び李克用の家へ移ったが、十日と経たないうちに朝廷から恩赦の命がくだって、十悪大罪を除く他の者はみな赦《ゆる》された。許宣もそれと同時に赦されたが、法海禅師の詞もあるから急いで杭州へ帰って往った。
李幕事夫婦は許宣の帰って来るのを待っていた。李幕事は許宣の挨拶が終るのを待って云った。
「お前も今度は豪《えら》い目に逢った。私はお前が蘇州へ往く時も、蘇州から鎮江へ往く時も、できるだけのことはしてやったが、それでも苦しかったのだろう、それと云うのもお前が一人でぶらぶらしてるからだ、早く家内をもらって身を固めるが宜い、そうすれば怪しい者だって寄りつかない」
許宣はそれよりもじっとおちつきたかった。
「私は、もう懲り懲りしましたから、家内はもらいません」
許宣のその詞が終るか終らないかに人声がして、そこへ入って来た者があった。それは許宣の姐が白娘子と小婢を伴れて来たところであった。
「あなたは家内があるくせに、そんな嘘を云うものじゃありません、私はあなたの家内じゃありませんか」
許宣はがたがた顫いだした。そして、声を顫わし顫わし云った。
「姐さん、そいつは妖精です、そいつの云うことを聞いてはいけないです」
白娘子は許宣の傍へ往った。
「あなたは、私と夫婦でありながら、人の云うことを聞いて私を嫌うとは、ひどいじゃありませんか、でも、私はあなたの家内ですから、他へはまいりません」
白娘子は泣きだした。許宣は急いで起って李幕事の袖を曳いて外へ出た。
「あれが白蛇の精です。どうしたら宜いのでしょう」
許宣は未《いま》だ口にしなかった鎮江に於《お》ける怪異を話して聞かした。
「ほんとうに蛇なら、宜い人がある、白馬廟《はくばびょう》の前に、蛇捉《へびとり》の戴《たい》と云う先生がいる、この人に頼もうじゃないか」
李幕事は前《さき》に立って許宣を伴れて白馬廟の前へ往った。戴先生は折好く家の前に立っていた。
「お二方とも何か私に御用ですか」
李幕事はいそがしそうに云った。
「私の家におおきな白蛇《しろへび》が来て、災《わざわい》をしようとしております、どうか捉《と》ってください」
李幕事はそう云って腰から一両の銀《かね》を出して、戴先生の掌《て》に載せた。
「今これだけさしあげておきます、もし捉ってくだすったら、後でまたべつにお礼をいたします」
戴先生は喜んで銀を収めた。
「では、すぐ後から準備《したく》をしてあがります、お二方は一足おさきへ」
李幕事と許宣はすぐ帰った。戴先生は間もなく後からやって来たが、手には雄黄《いおう》を入れた瓶《びん》と薬水《やくすい》を入れた瓶を持っていた。
「どこに白蛇がおります」
李幕事は白娘子のいる室《へや》を教えた。戴先生は教えられたとおりその室へ往ったが、室の扉は締っていた。戴先生は何かぶつぶつ云いながらその扉を開けようとしていると、扉は内から開いた。戴先生は内へ入って往った。内には桶《おけ》の胴のような白い蠎蛇《うわばみ》がいて、それが燃盞《かわらけ》のような両眼を光らし、炎のような舌を出して、戴先生を一呑《ひとの》みにしようとするように口を持って来た。戴先生は手にした瓶の落ちるのも知らずに逃げだした。
李幕事と許宣は戴先生の結果を見に来たところであった。戴先生は二人に往きあたりそうになって気が注いた。李幕事が云った。
「先生、捉れたでしょうか」
戴先生は呼吸《いき》をはずましていた。
「蛇なら捉れるが、あれは妖怪です、私はすんでのことに命を奪《と》られるところでした。あの銀はお返しします」
こう云って戴先生は逃げるように出て往った。李幕事と許宣は顔を見合わして困っていた。
「あなた、ここへいらしてください」
室の中から白娘子の声がした。許宣は体がぶるぶると顫えた。しかし、往かずにいてはどんなことをするかも判らないと思ったので、恐る恐る入って往った。中には白娘子が平生《いつも》と同じような姿で小婢と二人で坐っていた。
「あなたはほんとに薄情な方ですわ、あんな蛇捉の男なんか伴れて来て、あなたがそんなにわたしをいじめるなら、私にも考えがありますよ、この杭州一城の人達の命にかかわりますよ」
許宣は恐ろしくてじっとして聞いてはいられなかった。彼はそのまま外へ出たが、足を止めるのが恐ろしいので足の向くままに歩いた。彼は清波門《せいはもん》の外へ往っていた。彼はそこへ往ってから気が注いて、これからどうしたものだろうかと考えた。しかし、それからどうしていいか、どう云う手段を
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