「さあ、どうかお入りください」
 白娘子は体を動かそうとした。許宣がその前に立ち塞《ふさ》がった。
「こいつを家の中に入れては駄目です、こいつが私を苦しめた妖怪です」
 白娘子は小婢の方を見て微笑した。王主人は女のそうした※[#「女+朱」、第3水準1−15−80]なやさしい顔を見て疑わなかった。
「こんな妖怪があるものかね、まあ宜い、後で話をすれば判る、さあお入りなさい」
 許宣は王主人がそう云うものを己《じぶん》独《ひと》りで邪魔をするわけにもゆかないので、己で前《さき》に入って往った。白娘子は小婢を伴れて王主人に随いて内へ入った。家の内では王主人の媽々《にょうぼう》が入って来る白娘子のしとやかな女ぶりに眼を注けていた。白娘子は媽々におっとりした挨拶《あいさつ》をした後に、傍に怒った顔をして立っている許宣を見た。
「私は、あなたにこの身を許しているじゃありませんか、どうして、あなたを悪いようにいたしましょう、あの銀《かね》は、今考えてみますと、私の前の夫です、私はすこしも知らないものですから、あなたにさしあげてあんなことになりました、私はこれを云いたくてあがりました」
 許宣にはまだ一つ不思議に思われることがあった。
「臨安府の捕卒が往った時、あなたは牀の上にいて、大きな音がするとともに、いなくなったじゃありませんか、あれはどうしたのです、おかしいじゃないか」
 白娘子は笑い声を出した。
「あれは婢に云いつけて、板壁を叩かしたのですよ、その音で捕卒がまごまごしてよりつかなかったから、その隙《すき》に逃げて、華蔵寺《かぞうじ》前の姨娘《おばさん》の家にかくれていたのです、あなたはちっとも、私のことなんか考えてくださらないで、あべこべに私を妖怪だなんて云うのですもの、でも、私はあなたの疑いさえ解けるなら宜いのです、これで失礼いたします」
 白娘子は小走りに走って外へ出ようとした。王主人の媽々があわてて走って往って止めた。
「まあ、遠い所をいらしたのですから、二三日お休みになって、もっとお話しするが宜いじゃありませんか」
 白娘子は引返しそうにしなかった。小婢がそばから云った。
「奥さん、御親切にあんなに云ってくださいますから、もすこしお考えなすったら如何《いかが》です」
 白娘子は小婢の方を見た。
「でも、あの方は、もう私なんかのことは思ってくださらないのですもの」
 王主人の媽々は白娘子を放そうとはしなかった。
「もうすっかり事情も判ったのですから、許宣さんだっていつまでも判らないことは云わないですよ」
 許宣はもう白娘子に対する疑念が解けていた。王主人の媽々は白娘子を許宣の室へ伴れて往った。許宣と白娘子はその夜から夫婦となった。

 許宣の許へ白娘子《はくじょうし》が来てからまた半年ばかりになった。ある日、それは二月の中旬のことであった。許宣は二三人の朋友《ともだち》と散策して臥仏寺《がぶつじ》へ往った。その日は風の暖かな佳い日であったから参詣人《さんけいにん》が多かった。許宣の一行は、その参詣人に交って臥仏寺の前に往き、それから引返して門の外へ出た。そこには売卜者《ばいぼくしゃ》や物売る人達が店を並べていた。その人びとの間に交って一人の道人《どうじん》が薬を売り符水《ふすい》を施《ほどこ》していた。道人は許宣の顔を見ると驚いて叫んだ。
「あなたの頭の上には、一すじの邪気が立っている、あなたの体には、怪しい物が纏《まと》うている。用心しなくては命があぶない」
 許宣は非常に体が衰弱して気分がすぐれなかった。それに白娘子に対して抱いている疑念もあった。彼はそれを聞くと恐ろしくなった。地べたに頭をすりつけるようにして云った。
「どうか私を助けてください」
 道人は頷《うなず》いて符《ふだ》を二枚出した。
「これをあげるから、何人《たれ》にも知らさずに、一枚は髪の中に挟み、一枚は今晩|三更《よなか》に焼くが宜い」
 許宣はそれをもらうと朋友に別れて家へ帰り、一枚は頭の髪に挟み、一枚は三更になって焼こうと思って、白娘子に知らさずに時刻の来るのを待っていた。
「あなたは、また私を疑って、符を焼こうとしていらっしゃるのですね、こうして、もう長い間、いっしょにいるのにどこが怪しいのです、あんまりじゃありませんか」
 傍にいた白娘子が不意に怒りだした。許宣はどぎまぎした。
「いや、そんなことはない、そんなことがあるものか」
 白娘子の手が延びて許宣の袖の中に入れてあった符にかかった。白娘子はその符を傍の灯の火に持っていって焼いた。符はめらめらと燃えてしまった。
「どう、これでも私が怪しいのですの」
 白娘子は笑った。許宣はしかたなしに弁解《いいわけ》した。
「臥仏寺前の道人がそう云ったものだから、彼奴《あいつ》俺をからかったな」
「ほんとに道人がそんなことを云ったなら、明日二人で往ってみようじゃありませんか、怪しいか怪しくないか、すぐ判るじゃありませんか」
 翌日許宣と白娘子の二人は、伴れ立って臥仏寺の前へ往った。その日も参詣人で寺の内外が賑わっていた。彼《か》の道人の店頭にも一簇《いっそう》の人が立っていた。白娘子はその道人だと云うことを教えられると、そのまま走って往った。
「この妖道士、人をたぶらかすと承知しないよ」
 符水を参詣人の一人にやろうとしていた道人はびっくりした顔をあげた。そして、白娘子の顔をじっと見た。
「この妖怪《ばけもの》、わしは五雷天心正法《ごらいてんしんしょうほう》を知っておるぞ、わしのこの符水を飲んでみるか、正体がすぐ現われるが」
 白娘子は嘲《あざけ》るように笑った。
「ちょうど宜い、ここに皆さんが見ていらっしゃる、私が怪しい者で、お前さんの符水がほんとうに利いて、私の正体が現れると云うなら飲みましょうよ、さあください、飲みますよ」
「よし飲め、飲んでみよ」
 道人は盃《さかずき》に入れた水を白娘子の前へ出した。白娘子はこれを一息に飲んで盃を返して笑った。
「さあ、そろそろ正体が現れるのでしょうよ」
 許宣をはじめ傍にいた者は、またたきもせずに白娘子のきれいな顔を見ていたが、依然としてすこしも変らなかった。
「さあ、妖道士、どこに怪しい証拠がある、どこが私が怪しいのだ」
 道人は眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》って呆《あき》れていた。
「つまらんことを云って、夫婦の間をさこうとするのは、怪《け》しからんじゃありませんか、私がこれから懲らしてあげる」
 白娘子はそう云って口の裏で何か云って唱えた。と、彼《か》の道人は者があって彼を縄で縛るように見えたが、やがて足が地を離れて空《くう》にあがった。
「これで宜い、これで宜い」
 そう云って白娘子が口から気を吐くと道人の体は地の上に落ちた。道人は起きあがるなりいずこともなく逃げて往った。

 四月八日の仏生日《たんじょうび》が来た。許宣は興《きょう》が湧《わ》いたので承天寺《しょうてんじ》へ往って仏生会《たんじょうえ》を見ようと白娘子に話した。白娘子は新らしい上衣《うわぎ》と下衣《したぎ》を出してそれを着せ、金扇《きんせん》を持って来た。その金扇には珊瑚《さんご》の墜児《たま》が付いていた。
「早く往って、早く帰っていらっしゃい」
 そこで許宣は承天寺へ往った。寺の境内には演劇などもかかって賑わっていた。許宣は参詣人の人波の中にもまれてあちらこちらしていたが、そのうちに周将仕《しゅうしょうし》家の典庫《しちぐら》の中へ賊が入って、金銀珠玉衣服の類が盗まれたと云う噂がきれぎれに聞えて来たが、己《じぶん》に関係のないことであるからべつに気にも止めなかった。
「もし、もし、ちょっとその扇子を見せてください」
 許宣と擦《す》れ違おうとした男がふと立ちどまると共に、許宣の扇子を持った手を掴《つか》んだ。許宣はびっくりしてその男の顔を見た。男は扇子と扇子につけた珊瑚の墜児をじっと見てから叫んだ。
「盗人、盗人をつかまえたから、皆来てくれ」
 許宣はびっくりして弁解《いいわけ》しようとしたがその隙《ひま》がなかった。彼の体にはもう縄がひしひしと喰いついて来た。彼はその場から府庁に曳かれて往った。
「その方の衣服と扇子は、それで判っておるが、その余《あまり》の贓物《ぞうぶつ》は、どこへ隠してある、早く云え、云わなければ、拷問《ごうもん》にかけるぞ」
 許宣は周将仕家の典庫の盗賊にせられていた。
「私の着ている衣服も、持っている扇子も、皆家内がくれたもので、決して盗んだものではありません」
 府尹《ふいん》は怒って叱《しか》った。
「詐《いつわ》りを云うな、そのほうがいくら詐っても、その衣服と扇子が確な証拠だ、それでも家内がくれたと云うなら、家内を伴れてくる、どこにおる」
「家内は吉利橋の王主人の家におります」
「よし、そうか」
 府尹は捕卒に許宣を引き立てさせて王主人の家へ往かした。家にいた王主人は、許宣が捕卒に引き立てられて入って来たのを見てびっくりした。
「どうしたと云うのです」
「あの女にひどい目に逢わされたのです、今、家におりましょうか」
 許宣は声を顫《ふる》わして怒った。
「奥様は、あなたの帰りがおそいと云って、婢《じょちゅう》さんと二人で、承天寺の方へ探しに往ったのですよ」
 捕卒は白娘子の代りに王主人を縛って許宣といっしょに府庁へ伴れて往った。堂の上には府尹が捕卒の帰るのを待っていた。府尹は白娘子を捕えて来た後で裁判をくだすことにした。府尹の傍には周将仕が来てその将来《なりゆき》を見ていた。
 そこへ周将仕の家の者がやって来た。それは盗まれたと思っていた金銀珠玉衣服の類が庫の空箱の中から出て来たと云う知らせであった。周将仕はあわただしく家へ帰って往ったが、家の者が云ったように盗まれたと思っていた物は皆あった。ただ扇子と墜児《たま》がなかったが、そんな品物は同じ品物が多いので、そればかりでは許宣を盗賊とすることができなかった。周将仕は再び府庁に往ってそのことを云ったので、許宣は許されることになったが、許宣を置く地方が悪いということになって、鎮江《ちんこう》の方へ配《はい》を改められた。
 そこで許宣は鎮江へ送られることになったところへ、折好く杭州から邵大尉の命で李幕事が蘇州へやって来た。李幕事は王主人の家へ往って許宣が配を改められたことを聞くと、鎮江の親類へ手簡を書いてそれを許宣に渡した。鎮江の親類とは針子橋《しんしきょう》の下《もと》に薬舗《くすりや》を開いている李克用《りこくよう》と云う人の許《もと》であった。
 許宣は護送人といっしょに鎮江へ往って、李克用の家へ寄った。李克用は親類の手簡を見て護送人に飯を喫《く》わし、それからいっしょに府庁へ往って、それぞれ金を使って手続をすまし、許宣を家へ伴れて来た。
 許宣は李克用の家へおちつくことができた。心がおちついて来ると共に彼は恐ろしい妖婦に纏《まつ》わられている己《じぶん》の不幸をつくづく悲しんだ。そして口惜《くや》しくもなった。李克用は許宣が杭州で薬舗《やくほ》の主管《ばんとう》をしていたことを知ったので、仕事をさしてみると、することがしっかりしていてあぶなかしいと思うことがなかった。そこで主管にして使うことにしたが、他の店員に妬《ねた》まれてもいけないと思ったので、許宣に金をやって店の者を河の流れに臨んだ酒髟《しゅし》へ呼ばした。
 やがて酒を飲み飯を喫って、皆が帰って往ったので、許宣は後で勘定をすまして一人になって酒髟を出たが、苦しくない位の酔があって非常に好い気もちであった。彼は黄昏《ゆうぐれ》の涼しい風に酒にほてった頬を吹かれて家いえの簷《のき》の下を歩いていた。
 一軒の楼屋《にかいや》があってその時窓を開けたが、その拍子に何か物が落ちて来て、それが許宣の頭に当った。許宣はむっとしたので叱りつけた。
「この痴者《ばかもの》、気を注《つ》けろ」
 楼屋の窓には女の顔があった。女は眼を落してじっと許宣の顔を見たが、何か云って引込んだ。許宣は不思議に思ってその窓の方を
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