すから、決して冗談じゃありませんから、本気になって聞いてくださいまし、私は主人を歿《な》くして、ひとりでこうしておりますが、なにかにつけて不自由ですし、どうかしなくちゃいけないと思っていたところで、あなたとお近づきになりました、私はあなたにお願いして、ここの主人になっていただきたいと思いますが」
貧しい孤児の前に夢のような幸福が降って湧《わ》いた。許宣は喜びに体がふるえるようであったが、しかし、貧しい己の身を顧みるとこうした富豪の婦人と結婚することは思いもよらなかった。彼はそれを考えていた。
「お厭《いや》でしょうか、あなたは」
許宣はもう黙っていられなかった。彼は吃《ども》るように云いだした。
「そんなことはありませんが、私は、家も無い、何も無い、姐の家に世話になって、それで、日間《ひるま》は親類の舗へ出ているものですから」
「他に御事情がなければ、他に御事情があればなんですが、そんなことなら私の方でどうにでもいたしますから」
そう云って白娘子は顔をあげて小婢を呼んだ。小婢がもうそこに来ていた。白娘子は何か小声で云いつけた。
小婢はそのまま室を出て往ったが、まもなく小さな包を持って来て白娘子に渡した。白娘子はそれをそのまま許宣の前へ置いた。
「これを費用にしてくださいまし、足りなければありますから、そうおっしゃってくださいまし」
それは五十両の銀貨であった。許宣は手を出さなかった。
「それをいただきましては」
「宜いじゃありませんか、費用ですもの」
白娘子はそれを許宣の手に持っていった。許宣は受けて袖《そで》の中へ入れた。
「それでは、今日はもう遅いようですから、お帰りになって、またいらしてくださいまし」
小婢がそこへ傘を持って出て来た。許宣はふらふらと起《た》って傘を持って出た。
許宣は夜になって姐《あね》の許へかえって、結婚の相談をしようと思ったが、人生の一大事のことを、世間ばなしのように話したくないので、その晩は何も云わずに寝て、翌朝《あくるあさ》起きるなりそれまで貯えてあった僅《わずか》かな[#「僅《わずか》かな」はママ]銭を持って、市場に往き、鶏の肉や鵞《がちょう》の肉、魚、菓実《かじつ》、一樽《ひとたる》の佳《よ》い酒まで買って来て、それを己《じぶん》の室《へや》へならべて、李幕事夫婦を呼びに往った。
「今朝は、私のところで御飯を喫《た》べてください」
李幕事夫婦はひどく不思議に思って、許宣の室へやって来た。そして夫婦は卓の上の御馳走を見て驚いた。
「今日は、ぜんたいどうしたと云うのだい、へんじゃないか」
李幕事は突立ったなりに云った。
「すこしお願いしたいことがありますからね、どうか、まあお掛けください」
許宣はとりすまして云った。
「どんなことだ、さきに云ってみるが宜《よ》い」
「まあ、二三杯あがってください、ゆっくり話しますから」
許宣は李幕事夫婦に酒を勧めた。酒は二巡三巡した。許宣はそこで李幕事の顔を見た。
「私は、これまで御厄介をかけて、こんなに大きくなりましたが、その御厄介ついでに、も一つお願いしなくてはならないことがあります、私は、結婚をしたいと思います」
「婚礼か、婚礼は大事だから、一つ考えて置こう、なあお前」
李幕事は細君の顔を見たが、それっきり婚礼のことに就《つ》いては何も云わなかった。もすこし具体的の話をしようと思っていた許宣は、もどかしかったがどうすることもできなかった。
酒がすむと李幕事は逃げるように室を出て往った。許宣はしかたなしに李幕事の返事を待つことにして待っていたが、二日経《た》っても三日経っても何の返事もなかった。そこで許宣は姐の所へ往って云った。
「姐《ねえ》さん、この間のことを、兄《あに》さんと相談してくれましたか」
「まだしてないよ」
「なぜしてくれないんです」
「兄さんが忙しかったからね」
「忙しいよりも、兄さんは、私が婚礼すると、金がかかると思って、それで逃げてるのじゃないでしょうか、金のことなら大丈夫ですよ、ありますから」
許宣はそう云って袖の中から五十両の銀《かね》を出して姐の手に渡した。
「一銭も兄さんに迷惑はかけませんよ、ただ親元になって儀式をあげてもらえば宜いのですよ」
姐は金を見て笑顔になった。
「おかしいね、お前、どっかのお婆さんと婚礼するのじゃないかね、まあ宜いわ、私がこれを預ってて、兄さんが帰って来たなら、話をしよう」
許宣はそれから姐の室を出て来た。姐はその夜李幕事の帰ってくるのを待っていて、許宣の置いて往った金を見せた。
「あれは、何人《だれ》かと約束しているのですよ、親元になって、儀式さえあげてやれば宜いのですよ、早く婚礼をさそうじゃありませんか」
「じゃ、この金は、女の方からもらったものだね」
李幕事はそう云って銀《かね》を手に執りあげた。そして、その銀の面に眼を落した。
「た、たいへんだ」
李幕事は眼を一ぱいに※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》って驚いた。
「何をそんなにびっくりなさるのです」
細君には合点がゆかなかった。
「この金は、邵大尉《しょうたいい》の庫《くら》の金で、盗まれた金なのだ、庫の内へ入れてあった金が、五十錠無くなっているのだ、封印はそのままになってて、内の金が無くなっているのだ、臨安府《りんあんふ》では五十両の賞をかけて、その盗人を探索しているところなのだ、宣には気の毒だがしかたがない、我家《うち》から訴えて出よう、これが外から知れようものなら、一家の者は首が無い、こいつは豪《えら》いことになったものだ」
李幕事は朝になるのを待ちかねて、許宣の置いて往った金を持って臨安府へ往った。府では韓大尹《かんたいいん》が李幕事の出訴を聞いて、銀を一見したところで、確に盗まれた銀錠《ぎんじょう》であるから、時を移さず捕卒《ほそつ》をやって許宣を捉《とら》えさし、それを庁前に引据えて詮議《せんぎ》をした。
「李幕事の訴えによって、その方が邵大尉の庫の中の金を偸《ぬす》んだ盗賊と定《き》まった、後の四十九錠の金はどこへ隠した、包まずに白状するが宜かろう」
捕卒がふみこんで来た時から、もう気が顛倒《てんとう》して物の判別を失くしていた許宣は、邵大尉庫中の盗賊と云われて、はじめて己《じぶん》に重大な嫌疑がかかっていることを悟った。
「私は、決して、人の物を盗むような者ではありません、それは人違いです」
許宣は一生懸命になって弁解《いいわけ》をした。
「いつわるな、その方が邵大尉の庫の中の金を偸んだと云うことは、その方が姐に預けた、五十両の金が証拠だ、あの金はどこにあったのじゃ」
「あの金は、荐橋双茶坊|巷《こう》の秀王墻《しゅうおうしょう》対面に住んでおります、白《はく》と云う女からもらいました」
許宣はそこで白娘子と近づきになったことから、結婚の約束をするようになったいきさつを精《くわ》しく話した。その許宣の詞《ことば》には詐《いつわ》りがないようであるから、韓大尹は捕卒をやって白娘子を捉えさした。
捕卒は縄つきのままで許宣を道案内にして双茶坊へ往って、秀王墻の前になった、高い墻《まがき》に囲まれた黒い楼房《ろうぼう》の前へ往った。それはもう古い古い家で、人が住んでいそうには思われなかった。許宣は不思議に思って眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]っていた。捕卒の一人は隣家へ走って往ってその家の事情を聞いて来た。それは毛巡税《もうじゅんえつ》と云う者の住んでいた家で、五六年前に瘟疫《おんえき》で一家の者が死絶えて、今では住んでいる者は無いはずであるが、それでも時どき小供《こども》が出て来て東西《もの》を買うのを見たことがあるから、何人《なんぴと》かが住んでいるだろうが、しかし、この地方には白と云う姓の者は無いと云うことであった。
捕卒は家の前に立って手筈《てはず》を定め、門を開いて入って往った。扉は無くなり簷《のき》は傾き、磚《しきがわら》の間からは草が生え茂って庭内は荒涼としていて、二三日前に見た家屋の色彩はすこしもなかった。許宣は驚くばかりであった。
捕卒は別れわかれになって室《へや》の中へ入った。荒れ崩れて陰々として見える室の中には、人の跫音《あしおと》を聞いて逃げる鼠の姿があるばかりで、どこにも人の影はなかった。別れていた捕卒はいつの間にかいっしょになって、最後の奥まった離屋へ往った。そこは一段高い室になって、一人の色の白い女が坐っていた。衣服《きもの》の赤や青の※[#「女+朱」、第3水準1−15−80]《きれい》な色彩が見えた。その女は牀《とこ》の上に坐っているらしかった。捕卒は不審しながら進んで往った。
「われわれは、府庁からまいった者だが、その方は何者だ、白氏《はくし》なら韓大爺《かんだいや》の牌票《ぱいひょう》がある、その方が許宣にやった銀《かね》のことに就いて尋ねることがあるから、いっしょに伴れて往く」
女はじっと顔をあげたが、何も云わなければ驚いた容子《ようす》もなかった。
「あのおちつきすましたところは、曲者《くせもの》だ、捉えろ」
捕卒は一斉に走りかかっていった。と、同時に雷のような一大音響がした。捕卒はびっくりしてそこへ立ちすくんだ。そして、気が注《つ》いて女の方を見た。女の姿はもう見えなかった。捕卒は逃がしてはならないと思って、今度は腹を定めて室の中へ飛びこんで往った。女の姿は依然として見えなかったが、牀の傍には銀の包を積みあげてあった。それは紛失していた彼《か》の四十九個の銀錠であった。
捕卒は銀錠を扛《も》って臨安府の堂上へ搬《はこ》んで来た。許宣はそこで盗賊の嫌疑は晴れたが、素性の判らない者から、私《ひそか》に金をもらったと云うかどで、蘇州《そしゅう》へ配流《ついほう》せられることになった。
一方邵大尉の方では、約束の通り懸賞金五十両を出してそれを李幕事に与えたが、李幕事は義弟に苦痛を見せることによって得た金であるから、心苦しくてたまらない。で、牢屋の内にいる許宣に面会して、その金を旅費に与え、李将仕と相談して、二つの手簡を持って往かすことにした。その手簡の一つは、蘇州の押司《おうし》の范《はん》院長と云う者に与えたもので、一つは吉利橋下《きちりきょうか》に旅館をやっている王と云う者に与えたものであった。
その日になると許宣は二人の護送人に伴れられて牢屋を出た。府庁の門口《かどぐち》には李幕事夫婦をはじめ李将仕などが来て待っていた。許宣は涙を滴《こぼ》してその人びとに別れの詞をかわして出発した。
三日ばかりして蘇州府へ着いた。李将仕の手簡を見た范院長と王主人は、金を使って奔走したので、許宣は王主人の許に預けられることになった。
許宣が王主人の許に世話になってから半年ばかりになった。彼はそこで毎日|無聊《ぶりょう》に苦しめられていた。と、ある日王主人が室へ入って来た。
「轎《かご》に乗った女が来て、お前さんを尋ねている、※[#「Y」に似た字、第4水準2−1−6]鬟《じょちゅう》も一人|伴《つ》れている」
許宣は心当りはなかったが、好奇《ものずき》に門口へ出てみた。門口には彼《か》の白娘子と青い上衣を着た小婢《じょちゅう》が立っていた。許宣は驚きと怒《いかり》がいっしょになって出た。
「この盗人、俺《おれ》をこんな目に逢わしておいて、またここへ何しに来たのだ」
「私は、決して、そんな悪いものではありません、それをあなたに弁解《いいわけ》したくてまいりました」
白娘子は心持ち※[#「女+朱」、第3水準1−15−80]《きれい》な首を傾けて、さも困ったと云うようにした。
「いくら俺をだまそうとしたって、もうその手に乗るものかい、この妖怪《ばけもの》」
許宣の後からやって来た王主人は、許宣が門前でやかましく云っていて人に聞かれても面白くないと思ったので、その傍へ往った。
「遠くからいらした方らしいじゃないか、まあ内へ入れて話をしたら宜いじゃないか」
王主人はそう云ってから白娘子の方を見て云った。
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