上に置いた。
「どうもすみません」
女はそう云って鞋を穿いて小婢といっしょにあがって往った。許宣もその後からあがったがそれは赤脚《はだし》のままであった。
もう日没《ひぐれ》になっているのか四辺が灰色になって見えた。女は許宣のあがって来るのを楊柳の陰で待っていた。
「あの、なんですけど、雨もこんなに降りますし、もう日も暮れかけてますから、私の家へまいりましょうじゃありませんか、拝借したお銭《あし》もお払いしとうございますから」
許宣は女の家へも往きたかったが、姐の家に気がねがあるので往けなかった。
「もう遅うございますから、またこの次に伺《うかが》います」
「そうですか、……それでは、また、お眼にかかります、どうも有難うございました」
女はのこり惜しいような顔をして別れて往った。小婢は包を持って後《あと》から歩いていた。許宣ものこり惜しいような気がするので、そのまま立っていて今度見直すと、二人の姿はもう見えなかった。許宣は気が注《つ》いて船頭に一言二言別れの詞《ことば》をかけ、楊柳の陰から走り出て湧金門を入って、ぎっしり簷を並べた民家の一方の簷下を歩いた。彼はそうして近くの親類へ往って傘を借りようとしているのであった。彼の眼の前にはさっきの女の姿が花のように映っていた。
許宣は三橋巷《さんきょうこう》の親類へと往った。親類では夕飯の時刻だからと云って引留めようとしたが、許宣は家の外に幸福が待っているような気がして、家の内《なか》に置かれるのが厭《いや》だから、強いて傘ばかり借りて外へ出た。ぱっとさした傘に絡《から》まる軽い爽《さわや》かな雨の音。
洋場頭《ようじょうとう》に往ったところで、聞き覚えのある優しい女の声がした。
「おや、あなた」
許宣は左の方を揮《ふ》り向いた。そこの茶館の簷下にさっきの白娘子《はくじょうし》が独り雨を避けて立っていた。
「や、あなたでしたか、さっきは失礼しました」
「さきほどは有難うございました、どうも雨がひどいものですから、婢《じょちゅう》に傘を執りに往ってもらって待っているところでございます」
「そうですか、それは……、では、この傘を持っていらっしゃい、私はすぐそこですから、傘が無くっても宜いのです」
許宣は己の手にした傘を女に渡そうとしたが、女は手を出さなかった。
「有難うございますが、それではあんまりでございますから、宜しゅうございます、もう、婢がまいりましょうから」
「なに、宜いんです、私は、もう、すぐそこですから、傘をさすほどのことはないのです、さあお持ちなさい、傘は私が明日でも執りにあがりますから」
「でも、あんまりですわ」
「なに、宜いのです」
許宣は強《し》いて柄《え》を女の前に持って往った。
「ではすみませんが、拝借いたしましょうか、私の家は荐橋《そんきょう》の双茶坊《そうさぼう》でございます」
女はほっそりした長い指を柄にからませた。
「そうですか、それではまたお眼にかかります」
許宣は女に気をもまさないようにと、傘を渡すなり簷下に添うてとかとかと歩きだした。それといっしょに女も簷下を離れて石を敷いた道の上に出て往った。
許宣はその夜《よ》寝床に入ってからも白娘子《はくじょうし》のことを考えていた。※[#「女+朱」、第3水準1−15−80]《きれい》な眼鼻だちの鮮かな女の姿が心ありそうにしてこっちを見ていた。彼は誘惑に満ちた女の詞《ことば》を一つ一つ思いだしていた。と、物の気配がして寝室の帳《とばり》を開けて入って来た者があった。許宣はびっくりしてその方へ眼をやった。そこには日間《ひるま》のままの白娘子の艶《なまめ》かしい顔があった。許宣は嬉《うれ》しくもあればきまりもわるいので何か云わなくてはわるいと思ったが、云うべき詞が見つからなかった。
女は寝床の上にいつの間にかあがってしまった。許宣は呼吸《いき》苦しいほどの幸福に浸《ひた》っていたが、ふと気が注《つ》くとそれは夢であった。
翌朝になって許宣は平生《いつも》のように早くから舗《みせ》へ往ったが、白娘子のことが頭に一ぱいになっていて、仕事が手につかないので、午飯《ひるめし》の後で口実をこしらえて舗を出て、荐橋の双茶坊へ往った。
許宣はそうして白娘子の家を訪ねて歩いたが、それらしい家が見つからなかった。人に訊《き》いても何人《だれ》も知っている者がなかった。許宣は場所の聞きあやまりではないかと思って考えてみたが、どうしても双茶坊であるから、やめずに町の隅から隅へ訪ねて往った。しかし、それでもどうしてもそうした家がなかった。彼はしかたなしに諦《あきら》めて、くたびれた足を引擦《ひきず》るようにして帰りかけた。と、東西になった街の東の方から青い上衣《うわぎ》の小婢《じょちゅう》がやって来た。
「おや、いらっしゃいまし」
「傘をもらっていこうと思って、今、来たところですが、どこです」
許宣は腹の裏を見透されるように思って長い間探していたとは云えなかった。彼はそうして小婢に伴れられて往った。
おおきな楼房《にかいや》があって高い牆《へい》を四方に廻《めぐ》らしていた。小婢はその前に往ってちょっと足を止めて許宣の顔を見た。
「ここですわ」
許宣はこんな大きな家に住んでいた人が何故《なぜ》判《わか》らなかったろうと思って不審した。彼はそのまま小婢に随《つ》いてそこの門を潜《くぐ》った。
二人は家の中へ入って中堂《ざしき》の口に立った。
「奥様、昨日《きのう》御厄介になった方が、いらっしゃいました」
小婢が内へ向いて云った。すると内から白娘子の声がした。
「そう、では、こちらへね、さあ、あなた、どうかお入りくださいまし」
白娘子の詞について小婢が云った。
「さあ、どうかお入りくださいまし」
許宣は入りにくいので躊躇《ちゅうちょ》していた。と、小婢がまた促《うなが》した。
「奥様もあんなにおっしゃってますから、どうぞ」
許宣はそこで心を定《き》めて入った。室《へや》の両側は四扇《しまいびらき》の隔子《かくし》になって一方の狭い入口には青い布《きれ》の簾《とばり》がさがっていた。小婢は白娘子に知らすためであろう、その簾を片手に掲げて次の室へ往った。許宣はそこに立って室の容《ようす》を見た。中央の卓《つくえ》の上に置いた虎鬚菖蒲《はししょうぶ》の鉢が、先《ま》ず女の室らしい感じを与えた。そして、両側の柱には四幅《しふく》の絵を掛《か》けて、その中間になった所にも何かの神の像を画《えが》いた物を掛けてあった。神像の下には香几《こうづくえ》があって、それには古銅の香炉《こうろ》と花瓶《かびん》を乗せてあった。
白娘子が濃艶《のうえん》な顔をして出て来た。許宣はなんだかもう路傍の人ではないような気がしていたが、その一方では非常にきまりがわるかった。
「よくいらっしゃいました、昨日はまたいろいろ御厄介になりまして有難うございました」
「いや、どういたしまして、今日はちょっとそこまでまいりましたから、お住居はどのあたりだろうと思って、何人《だれ》かに訊いてみようと思ってるところへ、ちょうど婢さんが見えましたから、ちょっとお伺いいたしました」
二人が卓に向きあって腰をかけたところで、小婢が茶を持って来た。許宣はその茶を飲みながらうっとりした気もちになって女の詞を聞いていた。
「では、これで……」
許宣は動きたくはなかったが、いつまでも茶に坐っているわけにはゆかなかった。腰をあげたところで、小婢が酒と菜蔵果品《さかな》を持って来た。
「何もありませんが、お一つさしあげます」
「いや、そんなことをしていただいてはすみません、これで失礼いたします」
「何もありません、ま、お一つ、そうおっしゃらずに」
許宣は気の毒だと思ったが女の傍にいたくもあった。彼はまた坐って数杯の酒を飲んだ。
「それでは失礼いたします、もうだいぶん遅くなったようですから」
許宣は遅くなったことに気が注いたので、思い切って帰ろうとした。
「もうお止めいたしますまいか、あまり何もありませんから、それでは、もう、ちょとお待ちを願います、昨日拝借したお傘を、家の者が知らずに転借《またがし》をいたしましたから、すぐ執ってまいります、お手間は執らせませんから」
許宣はすぐ今日もらって往くよりは、置いてく方がまたここへ来る口実があっていいと思った。
「なに、傘はそんなに急ぎませんよ、また明日でも執りにあがりますから、今日わざわざでなくっても宜いのです」
「では、明日、私の方からお宅へまでお届けいたしますから」
「いや、私があがります、店の方も隙《ひま》ですから」
「では、お遊びにいらしてくださいまし、私は毎日対手《あいて》がなくて困っておりますから」
「それでは明日でもあがります、どうも御馳走になりました」
許宣は白娘子に別れ、小婢に門口《もんぐち》まで見送られて帰って来たが、心はやはり白娘子の傍にいるようで、己《じぶん》で己を意識することができなかった。そして、翌日舗《みせ》に出ていても仕事をする気になれないので、また口実を設けて外へ出て、そのまま双茶坊の白娘子の家へと往った。
許宣の往く時間を知って待ちかねていたかのように小婢が出て来た。
「ようこそ、さあどうかお入りくださいまし、今、奥様とお噂《うわさ》いたしておったところでございます」
「今日は傘だけいただいて帰ります、傘をください、ここで失礼します」
許宣はそう云ったものの早く帰りたくはなかった。彼は白娘子が出て来てくれればいいと思っていた。
「まあ、そうおっしゃらずに、ちょとお入りくださいまし」
小婢はそう云ってから内へ入って往った。許宣は小婢が白娘子を呼びに往ったことを知ったので嬉しかった。彼は白娘子の声が聞えはしないかと思って耳を傾けた。
人の気配がして小婢が引返して来た。小婢の後から白娘子の顔が見えた。
「さあ、どうぞ、お入りくださいまし、もしかすると、今日いらしてくださるかも判らないと思って、朝からお待ちしておりました」
「今日はもうここで失礼します、毎日お邪魔をしてはすみませんから」
「私の方は、毎日遊んでおりますから、お客さんがいらしてくださると、ほんとに嬉しいのですわ、お急ぎでなけりゃ、お入りくださいましよ」
「私もべつに用事はありませんが、毎日お邪魔をしてはすみませんから」
「御用がなけりゃ、どうかお入りくださいまし、さあ、どうか」
許宣はきまりわるい思いをせずに、白娘子に随いて昨日の室へ往くことができた。室へ入って白娘子と向き合って坐ったところで小婢がもう酒と肴《さかな》を持って来た。
「もうどうぞ、一本の破傘《やぶれがさ》のために、毎日そんなことをしていただいては、すみません、今日はすぐ帰りますから、傘が返っているならいただきます」
許宣はなんぼなんでも一本の傘のことで二日も御馳走になることはできないと思った。
「まあ、どうか、何もありませんが、召しあがってくださいまし、お話ししたいこともございますから」
白娘子はそう云って心持ち顔をあからめた。それは夢に見た白娘子の艶《なまめ》かしい顔であった。許宣は卓《つくえ》の上に眼を落した。
「さあ、おあがりくださいまし、私もいただきます」
白娘子の声について許宣は盃《さかずき》を口のふちへ持っていったが、その味は判らなかった。許宣はそうして己の顔のほてりを感じた。
「さあ、どうぞ」
許宣は白娘子の云うなりに盃を手にしていたが、ふと気が注《つ》くとひどく長座をしたように思いだした。
「何かお話が、……あまり長居をしましたから」
「お話ししたいことがありますわ、では、もう一杯いただいてくださいまし、それでないと申しあげにくうございますから」
白娘子はそう云って許宣の眼に己《じぶん》の眼を持って来た。それは白いぬめぬめするかがやきを持った眼であった。許宣はきまりがわるいので盃を持ってそれをまぎらした。と、香気そのもののような女の体がそこに来てぴったりと触れた。
「神の前でお話しすることで
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