採っていいかと云う考えはちょっと浮ばなかった。と、金山寺の法海禅師の云った偈の句が浮んで来た。それと同時に再び※[#「薛/子」、第3水準1−47−55]畜《ちくしょう》に纏《まと》われたなら、湖南の浄慈寺にわしを尋ねて来いと云った法海禅師の詞《ことば》が浮んで来た。彼はそれに力を得て浄慈寺の方へ往った。
浄慈寺には監寺《かんじ》の僧がいた。許宣は監寺に法海禅師のことを訊いた。
「法海禅師にお眼にかかりたいのですが」
「法海禅師は、一度もこの寺へいらしたことはないです」
許宣は力を落して帰った。そして長橋《ちょうきょう》の下まで来た。許宣はこれからどうしていいか判らなかった。彼は湖水の水に眼を注《つ》けた。俺が一人死んでしまえば、何人《たれ》にも迷惑をかけないですむと思いだした。彼の眼の前には暗い淋《さび》しい世界があった。彼はいきなり欄干に足をかけて飛びこもうとした。と、後から声をかける者があった。
「堂々たる男子が、何故《なにゆえ》生を軽んじる、事情があるなら商量《しょうだん》にあずかろうじゃないか」
そこには法海禅師が背に衣鉢《えはち》を負い手に禅杖を提げて立っていた。許宣はその傍へ飛んで往った。
「どうか私の一命を救うてくださいまし」
「では、また彼《か》の※[#「薛/子」、第3水準1−47−55]畜《ちくしょう》が纏わって来たとみえるな、どこにおる」
「姐の夫の李幕事の家に来ております」
「よし、では、この鉢盂《はち》をあげるから、これを知らさずに持っていって、いきなりその女の頭へかぶせて、力一ぱいに押しつけるが宜い、どんなことがあっても、手をゆるめてはならない、わしは、今、後《あと》から往く」
許宣は禅師から鉢盂をもらって李幕事の家へ帰った。李幕事の家の一室では、白娘子が何か云って罵《ののし》っていた。許宣はしおしおとした容《ふう》をしてその室へ往った。白娘子は許宣を見るとしとやかな女になって、許宣に何か云いかけようとした。隙《すき》を見て許宣は袖の中に隠していた鉢盂を出して、不意に女の頭に冠《かぶ》せて力まかせに押しつけた。女は叫んでそれを除《の》けようとしたが、除けられなかった。女の形はだんだんに小さくなっていった。そして、許宣がなおも力を入れて押しつけていると、女の形はとうとう無くなって鉢盂ばかりとなった。
「苦しい、苦しい、どうか今まで夫婦となっていたよしみに、すこし除けてください、私は死にそうだ」
鉢盂の中からそうした声が聞えて来た。と、その時李幕事が来て云った。
「和尚さんが、怪しい者を捉りに来たと云って見えたよ」
「それは法海禅師です、早くお通ししてください」
李幕事は急いで出て往ったが、やがて法海禅師を伴れて入って来た。
「妖蛇《ようじゃ》はこの下に伏せてあります」
禅師はそこで口の中で唱えていたが、それが終ると鉢盂を開けた。七八寸ぐらいある傀儡《にんぎょう》のようなものがぐったりとなっていた。禅師はその傀儡に向って云った。
「その方は、何故《なにゆえ》に人に纏《まつ》わるのじゃ」
「私は風雨のときに、西湖に来た蠎蛇《うわばみ》です、青魚《せいぎょ》といっしょになっておりましたところで、許宣を見て心が動いたので、こんなことになりました、それでも、曾《かつ》て物の命を傷《そこの》うたことがございませんから、どうか許してください」
「淫罪《いんざい》がもっとも大きいからいけない、それでも千年間修練するなら命は助かる、とにかく本《もと》の形を現すが宜い」
と、傀儡《にんぎょう》は白い蛇となって、その傍に青い魚の姿も見えて来た。
禅師はその蛇と魚を鉢盂《はち》に入れて、それに褊衫《けさ》を被《き》せて封をし、それを雷峰寺《らいほうじ》の前へ持って往って埋《うず》め、その上に一つの塔をこしらえさして、白蛇と青魚を世に出られないようにした。禅師はそれに四句の偈を留《とど》めた。
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雷峰塔倒れ、西湖水|乾《か》れ、江潮|起《た》たず、白蛇世に出《い》ず
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許宣は法海禅師の弟子となって雷峰塔の下におり、その塔を七層の大塔にしたが、後《のち》、業を積んで病《やまい》がないのに坐化《ざげ》してしまった。朋輩《ほうばい》の僧達は龕《がん》を買《こ》うてその骨を焼き、骨塔を雷峰の下に造ったのであった。
底本:「怪奇・伝奇時代小説選集14 累物語 他10篇」春陽文庫、春陽堂書店
2000(平成12)年11月20日第1刷発行
底本の親本:「怪談全集 歴史篇」改造社
1928(昭和3)年発行
入力:Hiroshi_O
校正:noriko saito
2006年6月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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