起きた漁師夫婦は、利根川の流れに舟を浮べて網を入れた。其処には川を登らんとする驚くべき鮭の集団があった。未だ夜の明けきらないうちに、舟に充満《いっぱい》の鮭を獲った夫婦は、一度帰って来てから、また舟に充満《いっぱい》の魚を獲った。夫婦の漁を見つけて網を入れに来た者もかなりの漁はあったが、夫婦の漁の足もとに及ぶ者はなかった。
その夜、彼の漁師の家では、酒を買い、肴をこしらえて、近隣の者に御馳走することにして、獲った鮭の中から旨そうな奴を選んで、それを料理した。と、その一つの腹から数多《たくさん》の蕎麦切が出て来た。魚を割いていた漁師は、旅僧に喫わした蕎麦のことを思いだして厭な気がした。
貧しい漁師の家は、その日の漁に莫大な利益を得て、忽ち村一番の長者になり、何不自由のない身の上となったが、漁師の神経には、鮭の腹から出た蕎麦のことがこびりついて消えなかった。
その前後から漁師の女房は妊娠して翌年の夏になって出産したが、それは醜い女の児で、そのうえ、顔には魚の胎児《はらご》のような赤い斑点があり、頭髪も縮れていた。その醜い我が子の顔を一眼見た女房は逆上して、それがために産後の肥立ちが悪くなって、とうとう死んでしまった。
長者の眼の前には、二三日鮭を獲ることを見合せと云った旅僧の姿と、鮭の腹から出た蕎麦切が縺れ合って見えていた。長者は怖ろしそうな顔をして乳母に抱かれている醜いわが子を見ていた。
長者の家はますます富んだ。どんな慾望でも願うて得られないものはなかったが、醜い女《むすめ》の顔は如何ともすることができなかった。長者は女が人並の女になれるなら、己《じぶん》の持っている富を無くしてもかまわないと思った。
女はもう年比《としごろ》になっていた。魚の胎児のような赤い斑点はますます拡がりを持ち、縮れた頭髪は赤茶けて見えた。女も醜い顔を怨み歎いて、人に見られないようにと、何時も、奥深い室に籠っていた。
その時都の者だという売卜者が来た。売卜者は病気にさえ罹っていた。少しでも善根を積んで、罪障を消滅したいと思っている長者は、これを見ると己の家へ泊めて病気の手当までしてやった。
売卜者は※[#「女+朱」、第3水準1−15−80]《きれい》な男であった。長者の女はこの噂を侍女の口から聞いて心をそそられた。そして、その侍女の計いで、一室で書見している売卜者の美しい姿
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