ゃ、どうだな、鮭を獲ることをやめては」
漁師は笑いだした。
「鮭を獲るのを気の毒じゃと云うてやめたら、こちとら夫婦《めおと》が餓死せにゃならん」
「それもそうじゃが、物の生命をとるのは殺生じゃ、決して好い報いは来ない」
「好い報いが来ないと云うても、親譲りの漁師じゃ、他にしようもないことじゃ」
「それもそうじゃが、せめてこの二三日でも、やめたらどうじゃ」
「二三日位ならやめても好いが、二三日魚を獲らなかったところで、その後で獲りゃあ同じことじゃないか」
「そうじゃない、この二三日の潮時に、多くの鮭は皆登るから、それでも罪業が軽くなるわけじゃ」
「お坊さんは、この二三日の潮時に、鮭の登ると云うことを、どうして知っているのじゃ」
「そんなことは、私《わし》には、ちゃんと判っている」
「それじゃ私《わし》の睨みも当っているのじゃ」と、漁師は喜んだが、旅僧の詞《ことば》も気にかからない事はない。
「だから二三日はやめるが好いだろう」
漁師は黙っていた。旅僧はやっと蕎麦切を喫《く》いはじめた。
「殺生の報いは、恐ろしいものじゃろうか」と漁師は聞いた。
「恐ろしいとも、一家一門が畜生道に墜ちて、来世は犬畜生に生れて来る」
旅僧はいつの間にか蕎麦を喫い終って、椀を前に置いていた。漁師は鮭も欲しかったが、旅僧の詞も恐ろしかった。
「じゃ、二三日は見合すとしようか」
「それが好い、それが好い、出家は悪いことは云わない」
漁師は旅僧の詞を守って、二三日は鮭網を入れまいと定めてしまった。旅僧は御馳走になった礼を云って、法衣《ころも》の袖をひらひらさして帰って往った。
「お前さんは、じゃ、明日は、やめるつもり」と、女房は冷笑《あざわら》うような声で云った。
「お坊さんが、ああ云うからな」と、漁師は女房の顔を見た。
「彼《あ》のお坊さんが、何を云うか判るもんかね、明日|己《じぶん》一人でやろうと思っている者が、お前さんを往かせないようにしようと思って、坊主を頼んで、あんなことを云いに来たかも判らないよ」
女房にそう云われると、そんな気のしないこともなかった。
「そうじゃろうか」
「どうせそんなことじゃよ、それでのうて、彼のお坊さんが、漁のことを知るもんかね」
「それもそうじゃ、じゃ、やっぱりやるとしようか」
「そうとも、あんな者に欺されてたまるもんかね」
朝、一番鶏といっしょに
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