鮭の祟
田中貢太郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)数多《たくさん》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)明日|己《じぶん》一人で

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「女+朱」、第3水準1−15−80]《きれい》
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 常陸と下総との間を流れた大利根の流れは、犬吠崎の傍で海に入っている。それはいつのことであったか判らないが、未だ利根川に数多《たくさん》の鮭が登って鮭漁の盛んな比《ころ》のことであった。銚子に近い四日市場と云う処に貧しい漁師があって、鮭の期節になると、女房を対手にして夜の目も寝ずに鮭を獲っていた。
 利根川の口に秋風が立って、空には日に日に鱗雲が流れた。もう鮭の期節が来たのであった。貧しい漁師は裏の網小屋の中にしまってあった鮭網を引き出して来て、破れ目を繕い、網綱を新らしくして、鮭の登るに好い潮時を覘っていると、やがてその潮時が来た。で、翌日のしらじら明けに網を入れようと思ってその用意をした。
 夜になると漁師は、明日の縁起祝いだと云って、女房に蕎麦切をこしらえさして、それで二三合の酒を飲んでいた。簷端《のきば》には星が光って虫の声がしていた。
「明日はまだ他に網をやる者はなかろうが、好い潮時だ、うんと獲れるぞ」
 漁師は膳の前に坐って蕎麦切を喫《く》っている女房に、こんなことを云って、網の袋に充満《いっぱい》になって来る大きな鮭を想像していた。
「そんなに獲れてくれると好いが、どうだか」と、女房は的《あて》にしていないらしい。
「いや獲れる、この潮時に獲れずにいつ獲れる、見ておれ」
「それでも、未だ早いじゃないか」
「早いことがあるもんか、去年は十日も早かったじゃないか」
 人の気配がして入口へ旅僧が来て立った。明りにと焼《た》いてある松の火がぼんやりと鼠色の法衣《ころも》を照らした。
「や、お坊さんじゃ、鮭の前祝いに一杯やりよるところじゃが」と、漁師は女房の方を顧みて、「その蕎麦切でも進ぜたらどうじゃ」
 女房は蕎麦切を椀に盛って出した。
「これは有難い」と、旅僧は押し戴くように受け、竹の簀子を敷いた縁端に腰をかけて、「蕎麦切の御馳走はありがたいが、鮭を獲る前祝いだと思うと、鮭に気の毒じ
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