五階になつた塔が朦朧として右側に見えた。義直は胸がつかへるやうに思つた。女の姿はその塔の壁に添うて立つてゐた。義直は何か自分の胸のあたりを支へる者があるやうな気がして歩けなかつた。
 黒い小さな影のやうな物が、女の横手の壁の方からちよこちよこと出て来て、それがいきなり女に飛びかかつた。義直は不良少年であらうと思つたので、走つて行つて引き放さうと思つた。
 人間の叫びとも獣の叫びとも判らない声がした。と、女に飛びかかつて行つた黒い影のやうな者は、猿か猫かの逃げるやうにつるつると壁に駈けあがつて、二階の屋根に登り、其所からまた上へと駈けあがつたが、すぐ見えなくなつてしまつた。
 義直は驚いて女の方を見た。五層楼の窓からぎら/\した光が落ちて来た。その光の下に女の姿は消えてしまつて、其所に一ツの黒い蝶がゐて、それがひら/\と飛んで行つた。
 義直の頭はぼうとなつてしまつた。

          五

 義直は夢中になつて歩いた。暗い坂路をおりたり、片側街になつた狭い所を通つたり、自動車のけたたましく往来してゐる所を通つたりしたが、場所と方角とを意識することは出来なかつた。
 軒に垂れた
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