声が右の耳元で聞えたので、義直は片手をやつて払ふやうにした。もう坂路をおりてしまつて散髪屋の角を曲らうとしてゐた。それは坂のおり口で逢ふた散髪屋の家であつた。義直は其所へ眼をやつた。ガラス戸の内に白いカーテンがおりて薄暗い灯が射してゐた。四辺に濃い闇がしつとりと拡がつて、両側を流れてゐる泥溝の水がびちびちと鳴つてゐた。
大雨の時には地上水が溢れる通りであつた。その通りにすぐ門口を喰付けたり、奥深く引込んだりした人家が、ぼつぼつ門燈を見せて歯の抜けたやうに並んでゐたが、もう多く寝てゐると見えて人声もしなかつた。その内で左側に唯一つ門口に一面に灯が射して明るい家があつた。それは義直の家の隣になつた氷屋であつた。
(氷屋で聞けば、叔父の来たか来ないかが判るな、)
氷屋の老婆と娘とが自分のために叔父の見張をしてくれてゐるやうな感じがした。彼の脚は自然と早くなつた。
若い男の笑ふ声が聞えて来た。氷屋に来てゐる学生であらう。それは屈託のない澄んだ声であつた。
(――学校の学生だらう、)
店の入口の右側に並べた水菓子の紅や黄ろが白いカーテンの間から見えて来た。若い男の笑声が止んで高い声で話す
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