「私がまいります」
 焦生はその男を伴れて宿へ帰り、十万銭の金を渡して、興行師といっしょに再び虎の処へ引返した。
「それでは、この虎を放してくれ」
「ここへ放すと、またどんなことになるかも判りません、あんたに売ったから、あんたが山の中へ伴れてって放してください」
 虎は柵の隅の方に寝ていた。焦生は柵の中へ入って往って鎖を持って引っ張った。虎は飼い犬のようにのっそりと体を起した。
 焦生はその虎を伴れて山の方へ往った。そして、渓川の縁に沿うて暫く登って往って鎖を解いた。と、烈しい風が起って木の枝が鳴り、小石が飛んだ。焦生は驚いて風に吹き倒されまいとした。虎はその隙に何処かへ往ってしまった。

 焦生はその秋試験に出かけて往った。彼は馬に乗り、一人の僕《げなん》をつれていた。道は燕趙の間の山間《さんかん》にかかっていたが、ある日、宿を取りそこねて、往っているうちに岩の聳え立った谷の間へ入ってしまった。もう真黒に暮れていて、あわただしそうに雲のとんでいた空からのぞいている二つ三つの星が、傍の岩角をぽっかりと見せているばかりで、すこしの明りもないので、前へも後へも往けなくなった。
 焦生と僕は途方に暮れてしまった。二人はしかたなしに何処かそのあたりで野宿にいい場処を見つけて寝ることにした。焦生は馬からおりて、野宿によい場処を見つけるつもりで、さきに立ってそろそろと歩きだした。短い雑木の林がきた。小さな道はその中へ往った。林の木は風に動いていた。焦生はその中へ往った。其処には小さな渓川が冷たい音を立てて流れていた。林の木におおわれた大きな岩があった。焦生は其処の風陰《かざかげ》を野宿の場処にしようと思った。彼は脚下《あしもと》に注意しながら岩のはなを廻って往った。眼の前に火の光が見えてきた。その火の焔のはしに家の簷《のき》が見えた。
「家がある、おお、家がある」
 焦生が前《さき》に立ってその家の門口へ行った。背の高い大きな老人が顔を出した。老人は焦生を客室へあげ、僕にも別に一室を与えた。
 老人は声の荒い眇の男であった。焦生は老人に自分の素性を話していた。痩せてはいるがやはり老人のように背の高い老婆が茶を持ってきた。老人は老婆の方をちょっと見た。
「これが私の妻室《かない》ですよ」
 焦生は老婆に向って挨拶をして、泊めてもらった礼を言った。老婆と焦生がまだ挨拶をしている時
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