た。焦生はすぐ眠られないので昼の虎のことを考えていた。と、寝室の扉《と》を荒あらしく開けて、赤い冠をつけ白い着物を着た老人が入ってきた。老人は焦生を見て長揖《ちょうしゅう》した。焦生は老人の顔に注意した。隻方の眼が眇になっている老人であった。
「私の災難を救ってください、私は仙界に呼ばれているものでございます、あんたが私を救ってくだされて、山の中へ帰してくださるなら、あんたは美しい奥さんができて、災難を脱《のが》れることができます」
焦生にはその老人が何者であるかということが判った。
「あの興行師が、あなたを手放すでしょうか」
「明日は手放す機会をこしらえます、来て買い取ってください」
「いいとも、買い取ってあげよう」
翌日焦生は一人で虎の興行場へ往った。もうたくさんの見物人が集まって開場を告げる鉦《かね》が鳴っていた。焦生が柵の傍へ往った時には、昨日の興行師は虎に乗って柵の中を走らしていた。
やがて興行師は柵の真中へ往って虎からおりて、鬚を引っぱり出した。焦生は不思議な老人の言った機会とはどんなことだろうかと考えていた。興行師は鬚を引っぱることを止めると、その禿頭を虎の口へ持って往った。と、見る間に虎の唸声《うなりごえ》が聞えて、老人の顔には真赤な血がかかった。
見物人は驚きの声をあげて柵を放れて逃げた。
柵の中では頭をびしゃびしゃに噛み潰された老人の死骸が横たわって、刀を持った二人の若い男が虎に迫っていた。
焦生はこれを見ると、逃げまどう見物人の間を潜って柵の方へ往って、柵の上へかきあがった。
「おい、その虎をどうする」
一人の若い男が振り返った。
「この畜生、爺親《おやじ》を噛み殺したから、殺すところだ」
「そうか、それは気のどくだが、お父さんを殺されたうえに、虎を殺したら、大損じゃないか、それよりか、俺に売れ、その売った金でお父さんの弔《とむらい》をしたらどうだ」
虎はもう眼をつむるようにして二人の前に立っていた。焦生に詞《ことば》をかけた男は、傍にいるもう一人の男の処へ往って話をはじめた。焦生は二人の話の結果を待っていた。
二人の話はしばらく続いた。そして、話のきまりがついたとみえてはじめの男が引き返してきた。
「どうする、売ってくれるか」
「十万銭なら、売りましょう」
「よし、買った、銭を渡すから何人《だれ》か一人、いっしょに来てくれ」
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