す」
「あんたにはわるいことはない、わしは、あんたが黙って出て往ったから、わしの待遇がわるかったじゃないかと思って、心配しておった、よく帰ってきてくれた」
「誠に申しわけがありません、どうかお許しを願います」
 興哥は顔をあげなかった。防禦は不審そうに言った。
「あんたは何か考え違いをしてるだろう、あんたには何も罪はないじゃないか」
「そうおっしゃられると、私は穴にでも入りとうございます、私は、お嬢さんとあんなことになりまして、二人で鎮江の方へ逃げておりましたが、お二人のことが気になりますので、お叱りは覚悟のうえで、帰って参りました、どうか二人の罪をお許しください」
 防禦は呆れて眼を瞠った。
「あんたは夢でも見ているのではないか、慶娘は一年ばかりも病気で寝ておる、あんたは確かに夢を見ておる」
「お家の恥辱になることですから、そうおっしゃるでしょうけれども、夢でも作り事でもありません」
「そんなばかばかしいことはない、確かに女は寝ておる」
「いや、お嬢さんは私といっしょに帰ってきて舟の中に待っております」
「そんなばかばかしいことがあるものか、あんたはどうかしておる、女は奥で寝ておる」
「でも舟におります」
 こう言って興哥は体を起した。防禦は傍に立っている取次を見た。
「船著場へ何人かやって、調べてこい」
 取次は引込んで往ったが、間もなく出てきた。
「どうだ、調べさしたか」
「調べましたが、どの舟にもお嬢様の姿は見えないそうです、まさかそんなことはないでしょう」
「そうとも、慶娘は家におる、夢でも見ていなければ、何か為にすることがあって、そんな事を言ってるだろう」
 防禦は怒ってしまった。興哥は女が証拠にと渡した釵の事を思い出した。
「決して私は嘘は申しません、嘘でない証拠には、これを御覧なすってください」
 興哥は懐から釵を出して起ちあがった。防禦はそれを手に取って見た。
「これは興娘を葬った時に、棺の中へ入れたものだ、この釵はあんたの家から、許嫁の証に贈ってきたものじゃ、これがどうしてあんたの手に入ったろう」
 防禦は考え込んだ。興哥も不思議でたまらないから防禦の考え込んだ顔へ目をやった。
 若い女がつかつかと来た。防禦は顔をあげた。今まで奥の室に寝ていた病人の慶娘であった。
「お父さん、私は不幸にして、お父さんとお母さんとに別れましたが、興哥さんとの縁が尽
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