金鳳釵記
田中貢太郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)崔興哥《さいこうか》は
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 崔興哥《さいこうか》は春風楼を目的《めあて》にして来た。そこには彼の往こうとしている呉防禦《ごぼうぎょ》という富豪の家があった。少年の時、父に伴われて宣徳府《せんとくふ》へ行ったきりで、十五年間一回もこの揚州へ帰ったことのない興哥は、故郷とはいえ未知の土地へ来たと同じであった。彼は人に訊き訊きして、もう陽の落ちる頃、やっと呉防禦の家へ著いた。
 表門を入って中門の前へ往ったところで、下男が門を締めようとしていた。興哥は手をあげて下男を招いた。
「わしは、旅から帰ってきた興哥じゃ、旦那様にお眼にかかりたいから、取次いでくれないか」
 下男は不審そうに興哥の風采をじろじろ見てから入って往った。興哥はそこへ立って黄色に夕映した西の空を見ていた。
 下男が急ぎ足で引返してきた。その下男は初めの態度と打って変って恭《うやうや》しくなっていた。
「旦那様が大喜びでございます、さあ、早くお入りくださいますように」
 興哥は入って往った。そのまわりの庭の容《さま》に見覚えがあるような気がした。室《へや》の中へ入ると防禦が出てきて立っていた。
「おお、興哥さんか、暫く逢わない間に、立派な男になった、さあ、おあがり、話したいことが山のようにある」
 興哥はほんとうの父親に逢ったように涙ぐましい心地になって、ちょっと挨拶をしながら防禦に随《つ》いて往った。次の室には明るい燈があった。二人はその燈を中にして向きあった。
「今、何か御馳走が出来るが、それまで話をしよう、お父さんもお母さんも、皆御無事だろう」
 防禦は心持ちよさそうに顔をにこにこさして言った。興哥は淋しそうな顔を見せた。
「実は、その父も、母も、歿《な》くなりまして」
「なに、お父さんも、お母さんも歿くなった」
 防禦は眼を瞠《みは》った。
「そうです、父は宣徳府の理官を勤めておりましたが、三年前に歿くなりました、母の方は、父よりも二三年前に歿くなりました」
「そうか、それは知らなかった、それでは、どこもかしこも不幸だらけじゃ、しかし、よく帰ってきてくれた、力を落してはいかんよ」
「いや、もう私も諦めております」
「そうじゃ、諦めなくちゃいかん、諦めるに就いては、まだ一つ諦めて貰わなければならないことがある」
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