ゃないか」
「何人《たれ》かにお聞きになりましたか」
「聞いたと云う理《わけ》でもないが、釜礁の事じゃろう」
「そうでございますよ」それから権兵衛を見て「旦那様はお聞きになっておりますか」
 権兵衛は頷《うなず》いた。
「今、総之丞から聞いたが、何か確乎《しっかり》した事を見た者でもあるか」
「乃公《おら》が見たと云う者はありませんが、妙な事を云いますよ」
「どんな事を云っておる」
「取りとめのない事でございますが、礁へ石鑿《いしのみ》を打ちこむと、血が出たとか、前日《まえのひ》に欠いであった処が、翌日《あくるひ》往くと、元の通りになっておったとか、何人《たれ》かが夜遅く酔《よっ》ぱらって、此の上を歩いておると、話声がするから、声のする方へ往ってみると、彼《あ》の礁の上に小坊主が五六人おって、何か理の解らん事を云っておるから、大声をすると河獺《かわうそ》が水の中へ入るように、ぴょんぴょんと飛びこんだとか、いろいろの事を云いまして」
「うむ」
「それに二三日、負傷《けが》をする者がありますから、猶更《なおさら》、此の礁は竜王様がおるとか、竜王様の惜《おし》みがかかっておるとか申しまして」
「そうか」
「それに、一昨日《おととい》も昨日も負傷《けが》はしましたが、石の破片《かけら》が眼に入ったとか、生爪を剥《は》がしたとか、鎚で手を打ったとか、大した事もございませざったが、今日はあんな事が出来ましたから、皆《みんな》が怕がって仕事が手につきません。私も傍におりましたが、二人で礁の頂上へあがって玄翁《げんのう》で破《わ》っておるうちに、どうした機《はずみ》かあれと云う間に、二人は玄翁を揮《ふ》り落すなり、転び落ちまして、あんな事になりましたが、銀六の方は、どうも生命《いのち》があぶのうございます」
「どうも可哀そうな事をしたが、あれには両親があるか」
「婆《ばんば》と女房と、子供が一人ございます」
「田畑《でんぱた》でもあるか」
「猫の額《ひたい》ぐらい菜園畑があるだけで、平生《いつも》は漁師をしておりますから」
「そうか、それは可哀そうじゃ、後《あと》が立ちゆくようにしてやらんといかんが、それはまあ後の事じゃ、とにかく本人の生命を取りとめてやらんといかん」
「そうでございます」
「それから、一方の手を折った方は、あれは生命に異状はなかろう」
「あれは、安田の柔術の先生にかかりゃ、一箇月もかからんと思います」
「しかし、可哀そうじゃ、大事にしてやれ、何かの事はつごうよく取りはかろうてやる」
「どうもありがとうございます」
 権兵衛は其の眼を港の口の方へやった。其処には釜の形をした大きな岩礁が小山のように聳《そび》えたっていたが、人夫の影はなかった。
「それでは往こうか」
 権兵衛は歩きだした。松蔵と総之丞は其の後から往った。

       三

 権兵衛は釜礁《かまばえ》の上の方へ往った。人夫たちは釜礁を離れて其の右側の大半砕いてある礁の根元を砕いていた。其処には赤|泥《どろ》んだ膝まで来る潮《うしお》があった。
 どっかん、どっかん、どっかん。
 権兵衛は右側の礁にかかっている人夫だちの方を見ていたが、やがて其の眼を松蔵へやった。
「松蔵」
「へい」
 松蔵は権兵衛に並ぶようにして前へ出た。権兵衛は屹《きっ》となった。
「松蔵、岩から血が出るの、小坊主が出るのと云うのは、迷信と云うもので、そんな事はないが、神様は在る。神様はお在りになるが、神様は決して邪《よこしま》な事はなさらない、神様は吾われ人間に恵みをたれて、人間の為よかれとお守りくだされる。従って良《え》え事をする者は神様からお褒めにあずかる。此の港は、此の土佐の荒海を往来《ゆきき》する船のために、普請をしておるからには、神様がお叱りになるはずはない。此《こ》の比《ごろ》暫く大暴風《おおじけ》もせず、大波もないが、これは神様のお喜びになっておる証拠じゃ。それに此の普請は、此の釜礁を砕いてしまえば、すぐにりっぱな港になる。一日でも早くりっぱな港を作ることは、神様はお喜びにこそなれ、お叱りになることはないと思うが、其の方はどう思う」
「へい」
 と云ったが、松蔵はそれに応える事ができなかった。総之丞が松蔵のために応えなくてはならぬ。
「それは一木殿のお詞《ことば》のとおりでございます。神様は人の為こそ思え、人を苦しめるものではございませんから、人のために作っておる港の、邪魔をするはずはありません」
 権兵衛は頷いた。
「そうとも、其のとおりじゃ」松蔵を見て、「松蔵、判るか」
 松蔵にもおぼろげながら其の意は判った。
「判ります」
「それでは、礁を破るに憚る事はないぞ」
「そりゃ、そうでございます」
「それが判ったなら、皆に其の事を云え」
「云いましょう、云います」
「云え、云
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