海神に祈る
田中貢太郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)一木権兵衛《いちきごんべえ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)七人|御崎《みさき》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「金+至」、第4水準2−90−75]《かま》の
[#…]:返り点
(例)遂[#二]
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一
普請奉行の一木権兵衛《いちきごんべえ》は、一人の下僚《したやく》を伴《つ》れて普請場を見まわっていた。それは室津港《むろつこう》の開鑿《かいさく》工事場であった。海岸線が欠けた※[#「金+至」、第4水準2−90−75]《かま》の形をした土佐の東南端、俗にお鼻の名で呼ばれている室戸岬《むろとみさき》から半里の西の室戸に、古い港があって、寛文《かんぶん》年間、土佐の経世家として知られている野中兼山《のなかけんざん》が開修したが、港が小さくて漁船以外に出入することができないので、藩では延宝《えんぽう》五年になって、其の東隣の室津へ新しく港を開設することになり、権兵衛を挙げて普請奉行にしたのであった。
野中兼山の開修した室戸港と云うのは、土佐日記に、「十二日、雨ふらず(略)奈良志津《ならしず》より室戸につきぬ」と在る処《ところ》で、紀貫之《きのつらゆき》が十日あまりも舟がかりした港であるが、後にそれが室戸港の名で呼ばれ、今では津呂港《つろこう》の名で呼ばれている。兼山が其の室戸港を開修した時には、権兵衛は兼山の部下として兼山に代って其の工事監督をしていた。此の権兵衛は、土佐郡《とさぐん》布師田《ぬのしだ》の生れで、もと兼山の小姓であったが、兼山が藩のために各地に土木事業を興して、不毛の地を開墾したり疏水《そすい》を通じたりする時には、いつも其の傍にいたので、しぜんと其の技術を習得したものであった。
権兵衛は新港開設の命を請けると、まず浮津川《うきつがわ》の川尻から海中に向けて堰堤《えんてい》を築き、港の口に当る処には、木材を立て沙俵《すなだわら》を沈めて、防波工事を施すとともに、内部を掘鑿《くっさく》して、東西二十七間南北四十二間、満潮時に一丈前後の水深が得られるように計画して、いよいよ工事に着手したところで、沙の細かな海岸へ強いて開設する港のことであるから、思うように工事がはかどらなかった。
権兵衛は東側の堰堤を伝って突端の方へ往こうとしていた。その時五十二になる権兵衛の面長なきりっとした顔は、南の国の強い陽の光と潮風のために渋紙色に焦げて、胡麻塩《ごましお》になった髪も擦《す》り切れて寡《すくな》くなり、打裂《ぶっさき》羽織に義経袴《よしつねばかま》、それで大小をさしていなかったら、土地の漁師と見さかいのつかないような容貌《ようぼう》になっていた。
それは延宝七年の春の二時《やつ》すぎであった。前は一望さえぎる物もない藍碧《らんぺき》の海で、其の海の彼方《かなた》から寄せて来る波は、※[#「革+堂」、第3水準1−93−80]《ど》どんと大きな音をして堰堤に衝突とともに、雪のような飛沫をあげていた。其処は左に室戸岬、右に行当岬《ぎょうどうざき》の丘陵が突き出て一つの曲浦《きょくほ》をなしていた。堰堤の内の半ば乾あがった赤濁った潮の中には、数百の人夫が散らばって、沙を掘り礁《はえ》を砕いていたが、其のじゃりじゃりと云う沙を掘る音と、どっかんどかんと云う石を砕く音は、波の音とともに神経を掻きまぜた。また掘りあげた沙や砕いた礁の破片《かけら》は陸へ運んでいたが、それが堰堤の上に蟻《あり》が物を運ぶように群れ続いていた。
権兵衛は所有《もちまえ》の烈しい気象を眉にあらわしていた。はかどらなかった難工事も稍緒《ややちょ》に就いて、前年の暮一ぱいに港内の掘りさげが終ったので、最後の工事になっている岩礁を砕きにかかったところで、思いの外に岩質が硬くて思うように砕けなかった。それに当時の工事であるから、岩を砕くにも大小の鉄鎚《かなづち》で一いち打ち砕くより他に方法がないので、それも岩礁砕破の工事の思うようにならない原因の一つでもあった。
堰堤の外側には鴎《かもめ》の群が白い羽を夕陽に染めて飛んでいた。陸《おか》の畑には豌豆《えんどう》の花が咲き麦には穂が出ているが、海の風は寒かった。権兵衛は沙や礁の破片《かけら》を運ぶ物[#「運ぶ物」はママ]を避け避けして往った。沙を運ぶ者は、笊《ざる》に容れて枴《おうこ》で担い、礁の破片を運ぶ者は、大きな簣《あじか》に容れて二人で差し担って往《ゆ》くのであった。
「よいしょウ、よいしょウ」
「おもいぞ、おもいぞ」
「いそぐな、いそぐな」
「急いでもわれ
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