んぞ、急ぐな急ぐな」
「居《お》るぞう、居るぞう」
「怕《こわ》いぞ、怕いぞ」
権兵衛の伴れている下僚《したやく》は武市総之丞《たけちそうのじょう》と云う男であった。総之丞は簣の一群《ひとむれ》をやりすごしておいて、意《いみ》ありそうに権兵衛を見た。
「お聞きになりましたか」
「何じゃ」
「今、人足が云った事でございますが」
「何と云った」
「居るとか怖いとか、口ぐちに云っておりましたが」
「あれか、あれは何じゃ」
「あれは、彼《あ》の釜礁《かまばえ》の事でございます」
釜礁は港の口に当る処に横たわった大きな礁で、それを砕きさえすれば工事も落著するのであった。
「釜礁がどうしたのか」
「此の二三日、彼の釜礁は、竜王が大事にしておるから、とても破《わ》れない、また破っておいても、翌日になると、元のとおりになっておるとか、いろいろの事を云っております」
「そうか、そんな事を云っておるか」
これも陽の光と潮風に焦げて渋紙色になった総之丞の顔には嘲笑《あざわらい》が浮んだ。
「しかし、今の世の中に、神じゃの、仏じゃの、そんな事が在ってたまりますものか、阿呆らしい」
権兵衛は足を停めた。
「待て待て、崎《さき》の浜《はま》の鍛冶屋《かじや》の婆《ばんば》じゃの、海鬼《ふなゆうれい》じゃの、七人|御崎《みさき》じゃの、それから皆がよく云う、弘法大師《こうぼうだいし》の石芋《いしいも》じゃの云う物は、皆|仮作《つくりごと》じゃが、真箇《ほんと》の神様は在るぞ」
総之丞は眼を円くした。
「在りますか」
「在るとも」
総之丞はもう何も云わなかった。総之丞は権兵衛の精神家らしい気もちを知っていた。権兵衛は歩きだした。総之丞も黙って跟《つ》いて往った。
二
六七人の人夫の一群が前方《むこう》から来た。礁《はえ》の破片《かけら》を運んでいる人夫であるから、邪魔になってはいけないと思ったので、権兵衛は体を片寄せて往こうとした。其の人夫の先頭に立った大きな男の背には一人の人夫が負われて、襦袢《じゅばん》の衣片《きれ》で巻いたらしい一方の手端《てくび》を其の男の左の肩から垂らしていた。そして、其の大きな男の後《うしろ》にも枴《おうこ》で差し担った簣《あじか》が来ていたが、それにも人夫の一人が頭と一方の足端《あしくび》を衣片《きれ》でぐるぐる巻きにして仰臥《あおむけ》に寝かされていた。見ると其の人夫の頭を巻いた衣片には生《なま》なました血が浸《にじ》んで、衣片の下から覗《のぞ》いている頬から下の色は蒼黒くなって血の気が失せていた。
「おう、これは」
権兵衛は眼を見はった。簣の横にいた横肥《よこぶとり》のした人夫の一人がそれを見て権兵衛の前へ出た。それは松蔵《まつぞう》と云う人夫の組頭の一人であった。
「どうした事じゃ」
「礁の上から転びました」
「転んだぐらいで、そんな負傷《けが》をしたか」
「物の機《はずみ》でございましょう、下に鋸《のこぎり》の歯のようになった処がございまして、その上へ落ちたものでございますから」
「そうか」
一行は其の前に停まっていた。松蔵は負《おぶ》われている男の衣片を巻いた手に眼をやった。
「虎馬《とらま》は、手端《てくび》を折りました」それから簣に寝かされている男へ眼をやって、「銀六《ぎんろく》は頭を破《わ》りました」
銀六と云われた簣の上の人夫は微《かすか》に呻《うめ》いていた。権兵衛はそれにいたわりの眼をやった。
「それは可哀《かわい》そうな事をした、早く役所へ伴れて往って手当をしてやれ」
「虎馬の方は此方《こちら》でもよろしゅうございますが、銀六の方は、安田《やすだ》へ往かんと手当ができませんから、いっその事、二人を伴れて往かそうと思いますが」
「そうか、それがええ、それでは早いがええ」
「そうでございます」松蔵はそこで気が注《つ》いて、「それでは、早う往け、安吾《やすご》さんは役所へ寄って、早川《はやかわ》さんから名刺《なふだ》をもろうて往くがええ」
安吾と云うのは後《うしろ》の方にいた。それは六十近い痩《や》せた老人《としより》であった。
「ええとも、それじゃ、往こうか」
安吾の声で一行は歩きだした。権兵衛はじっとそれを見送った。松蔵は権兵衛の方へぴったりと寄った。
「旦那」
松蔵の声は外聞を憚《はばか》ることでもあるように小さかった。
「うむ」
「妙な事を云う者がございますよ」
「どんな事じゃ」
「どんなと云いまして、妙な事でございますが、旦那はお聞きになっておりませんか」
傍には総之丞の顔があった。松蔵は総之丞へ眼をやった。
「武市の旦那は、お聞きになりませんか」
総之丞は好奇《ものずき》らしい眼をした。
「あれじゃないか」
「あれとは、あれでございますか」
「礁の事じ
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