漁があれば、一日で一箇月分の夫役になるじゃないか」
「それがなかなかそういきませんから、漁師は昔から貧乏と相場が定まっておりますよ」
「そうか、そうかも知れん」
 一行は室津の部落を離れて浮津の部落へかかっていた。其の時、右側の漁師の家から小さな老人が出て来て空を見た。
「さにし[#「さにし」に傍点]がせり[#「せり」に傍点]よる、朝のうちに一網やろうか」
 それは地曳網《じびきあみ》を曳こうと云っているところであった。そして、権兵衛と総之丞が近ぢかと寄って往くと、老人は驚いたようにして家《うち》の内へ入って往ったが、家の中から、
「普請方のお役人が帰《いに》よる」
 と云う声が聞えた。総之丞は笑った。
「御存じでございませんか、今の男は、夫役に来て縄を綯《な》うておりました者でございますが」
「そうか気が注《つ》かざったが、彼《あ》の鼻のひしゃげた老人か」
 老人かと云うなり権兵衛は体を崩して倒れてしまった。総之丞は驚いて駈け寄った。
「如何《いかが》なされました」
 権兵衛は右脇を下にして倒れていた。
「一木殿、気を確に一木殿」総之丞は蹲《しゃが》んで権兵衛の肩へ手をかけて、「如何なされました」
 権兵衛は体をくねらすなり俯向《うつむ》きになった。
「五体が痺《しび》れた」
「痺れた、御病気でございますか」
「病気かも知れんがおかしいぞ」
「何か食物《たべもの》の啖《く》いあわせではございますまいか」
「其の方たちと同じ物を啖ったじゃないか、他には何も啖わん、啖いあわせなら其の方だちも同じようになるはずじゃが」
「そりゃそうでございます。それでは、とにかく、気つけをあげましょう」
「そうじゃ、拙者の印籠に気つけがある、取ってくれ」
「よろしゅうございます」
 伴れの下僚《したやく》も傍へ来て心配そうに権兵衛を見ていた。総之丞はそれに眼をつけた。
「水を汲んで来てもらいたいが」
 下僚の一人は彼《か》の老人の家へ往った。総之丞は権兵衛の腰につけた印籠を取って、其の中から薬を出したところへ彼の下僚が茶碗に水を容《い》れて引返して来た。総之丞は其の水を取って薬とともに権兵衛の口へやった。
「さあ、どうぞ」
 権兵衛は口をもぐもぐさして飲んだ。
「御苦労、御苦労」
「御気分は如何でございます」
「気分は何ともない、筋のぐあいであろう」
「それでは、馬にお乗りになりますか」
「馬には乗れまい、今日は引返そう」
 間もなく権兵衛は戸板に載せられて引返して来たが、普請役場の己《じぶん》の室《へや》へおろされたところで体の痺れはすっかり除《と》れていた。そこで権兵衛は起《た》ってみた。起っても平生《いつも》のとおりで体に異状はなかった。
「おかしいぞ、何ともない。これならもうすこし休んでおったら、癒《なお》ったかも判らなかった」
 其処には総之丞がいた。総之丞は権兵衛に馬をすすめた事を思いだした。
「彼《か》の時、馬にお乗りになったら、よかったかも知れませんよ」
「そうじゃ、馬に乗って往けば、そのうちに癒ったにきまっておる」
 翌日になって権兵衛はまた出発した。そして、また浮津に往って彼の老人の家の前まで往った。総之丞は権兵衛の右側を歩いていた。
「此処でございましたよ」
 権兵衛も頷《うなず》いた。
「そうじゃ」
 老人の家は其の朝は、まだ戸が開いていなかった。
「今日は、まだ起きておりませんよ」
 総之丞は権兵衛の返事を聞こうとしたが、返事がないのでちらと見た。権兵衛の体は其の時よろよろしていたが、其のうちに倒れてしまった。
「一木殿、一木殿、また痺れでも」
 権兵衛は仰臥《あおむけ》になっていた。夜はもう白《しら》じらと明けていた。
「一木殿、御気分は」
 権兵衛は眼を開けた。
「気分は何ともない」
「それでは、また気つけでも」
「いや、待て」
 と云って権兵衛は眼をつむって何か考えるようにした。
「それでは、馬にお乗りになりますか」
「すこし考える事がある、気の毒じゃが、また戸板へ載せて引返してくれ」
 権兵衛はまた戸板に載って引返したが、帰りついてみると体は元のとおりになっていた。そこで権兵衛は己《じぶん》の代理として、総之丞に二三の下僚をつけて高知へやり、己は普請役所に留まっていると、十日ばかりして下僚の一人が引返して来て、藩庁の報告は滞《とどこお》りなく終ったと云った。
 それは延宝七年六月十六日の事であった。権兵衛は其の時、普請役所に残っていた武太夫を呼んだ。
「釜礁《かまばえ》を割る時に、お願をかけて、其のままになっておる。今晩は其のお願ほどきをする、準備をしてくれ」
 武太夫もお願のかけっぱなしはいけないと思った。
「早速そういたしましょう、お願のかけっぱなしはいけません」
「それでは頼む」
 武太夫が出て往くと、権兵
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