鎧武者は」
権兵衛は腰にさしている軍扇をさっと拡げた。それは赤い日の丸の扇であった。
「来い」
人夫たちは権兵衛と云う事を知ったので安心して傍へ寄った。権兵衛は凛《りん》とした顔をした。
「皆《みんな》よく聞け、拙者は此の釜礁が割れないから、己《じぶん》の身を竜王様に献《たてまつ》って、何時《いつ》なんどき此の生命《いのち》をお取りくだされてもかまいませんから、釜礁を一刻も早く取り除《の》けるようにしてくだされと、昨夜《ゆうべ》の八時《いつつ》すぎから一睡もせずにお願《がん》をこめたから、其の方たちにはもうおかまいがない」
人夫たちの中に囁《ささやき》が起った。権兵衛は呼吸を調えた。
「それに殿様も、此の普請を御心配なされて、昨日、御微行でお成りになったから、今日は此処へ御検分にお成りになる。それで皆《みんな》も気をいれかえて、新らしい気もちになってかかれ、決して其の方たちにお咎めはない、お咎めがあれば拙者《せっしゃ》じゃ」
人夫たちの眼は活《いき》いきとした。権兵衛は軍扇を揮《ふ》った。
「それでは、かかれ、かかれ」
人夫たちはわっ[#「わっ」に傍点]と歓声をあげながら、勇みたって下へおりて往った。総之丞はじめ五六人の下僚《したやく》が来ていた。総之丞は前へ出た。
「一木殿お疲れでございましょう、さあ、どうぞお食事を」
「飯は後でええ、此処をかたづけてくれ」
そこで総之丞はじめ下僚は幔幕を畳み、祭壇の始末をはじめた。権兵衛は釜礁の方を見おろしていた。
釜礁の方には、もうどっかんどっかんの音が盛に起っていた。それに交ってじゃりじゃりじゃりと砂を掘る音も聞えて来た。笊《ざる》と簣《あじか》の群はまた蟻のように陸《おか》へ往来《ゆきき》をはじめた。
空には何時の間にか鰯雲《いわしぐも》が出て、それが網の目のように行当岬の方へ流れていた。その時釜礁の方に当って歓声があがった。それは仕事の上の喜びにあがった歓声のようであった。権兵衛はじっと眼を見すえた。石を砕く音がやんで、其処には数人の者が手をあげて、はしゃいでいるのが見られた。
どっかんどっかんの音はまた聞えだした。権兵衛はやはり釜礁の方を見ていた。と、また其処から歓声があがった。今井|武太夫《ぶだゆう》と云う老年《としより》の下僚《したやく》が傍へ来た。
「あれは何でございましょう」
武太夫は視力が鈍いので遠くが見えなかった。権兵衛はそれを知っていた。
「礁がうまく除《と》れておるじゃないか」
「そうでございますか、それは結構なことでございます」
「うむ」
二人の人夫が石垣を這《は》ってあがって来た。組頭の松蔵とこれも組頭の一人の寅太郎《とらたろう》の二人であった。松蔵はにこにこしていた。
「旦那、神様のお蔭がございますよ」
「そうか、割れるか」
「どんどん割れます、今、鬨《とき》の声があがりましたろう」
「あがった」
「あれでございますよ、最初なんか、児鯨《こくじら》ほどの物が割れましたよ」
「児鯨はぎょうさんなが、そうか、そうか、それはよかった」
「此のむきなら、十日もやれば、割れてしまいますよ」
「大きな礁じゃ、そう早くもいくまいが、緒口《いとぐち》が立てば大丈夫じゃ」
六
権兵衛は二番鶏を聞いて起きた。其の晩は夕凪《ゆうなぎ》で風がすこしもなかったので、寝苦しくておちおち眠れなかったが、室津を引きあげる事になっているので、努めて起きて朝食を食うなり出発した。
外はまだ微暗《うすぐら》かったが、さすがに大気は冷えていた。権兵衛は二匹の馬に手荷物を積み、二三の下僚《したやく》を伴《つ》れていた。下僚の中には総之丞もいた。
権兵衛は悩まされた釜礁《かまばえ》が除《と》れて、工事が思いの外に捗《はかど》り、間もなく竣成《しゅんせい》したので、高知の藩庁に報告する必要から、急いで引きあげて往くところであった。其の時権兵衛が新港開鑿に要した夫役《ぶやく》は一百七十三万人役で、費用は十万二千五百両であった。それは野中兼山が寛永の古港を改修して、中掘普請と云っているに対して次普請と云われた。其の港は今、室津港と云われている。
沖の方が荒れているのか、波の音に狂いがあった。権兵衛は並んで歩いていた総之丞に声をかけた。
「今日は暑いぞ」
「そうでございますよ、彼《あ》の波の音が曲者《くせもの》でございますよ」
「そうじゃ、波の音がいかんぞ」
砂路の右側には藁葺《わらぶき》の小さな漁師の家が並び、左側には荻《おぎ》や雑木の藪《やぶ》が続いていた。漁師の家《うち》にはもう起きて火を焚いている処があった。
「やっぱり早いな」
「これまで、普請で、仕事がありましたが、これから当にならん漁に出んとなりませんから、気が気じゃございませんよ」
「其のかわり
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