った。
「権兵衛、精出して池を掘れ」
権兵衛が驚いて挨拶しようとした時には、馬はもう走っていた。権兵衛を追って来て遠くの方に控えていた総之丞が其の時寄って来た。
「殿様は、どうなされました」
権兵衛は何も云わなかった。
四
権兵衛は普請役場の内にある己《じぶん》の室《へや》にいた。其処は八畳位の畳も敷き障子も入っているが、壁は板囲の山小舎のような室であった。そして、室の一方には蒲団を畳んで積み、衣類を入れた葛籠《つづら》を置き、鎧櫃《よろいびつ》を置き、三尺ばかりの狭い床には天照大神宮《てんしょうだいじんぐう》の軸をかけて、其の下に真新しい榊《さかき》をさした徳利を置いてあった。権兵衛は其の床の前の小机の傍にいた。其の小机には半紙を二枚折にした横綴《よことじ》の帳面を数冊載せてあった。
権兵衛は思い詰めた顔をして考えこんでいたが、やがて何か考えついたようにして手を鳴らした。するとすぐ近くで返事があって、廊下にした板の間へ顔を出した者があった。磯山清吉《いそやませいきち》と云う下僚《したやく》で壮《わか》い小兵《こがら》な男であった。
「お呼びになりましたか」
「呼んだ」
「何か御用でございますか」
「総之丞はおるか」
「浜の方へ出て往きましたが、何か御用が」
「それじゃ、総之丞でなくてもええ、神様のお祭をするから、白木の台と、あ、台は普請初めの時にこしらえたものがある、それから雉子《きじ》か山鳥が欲しいが、それは無いかも知れんから、鶏の雌と雄を二羽買い、蜜柑も柿もあるまいから、芋でも大根でも、畑に出来る物を三品か四品。幣束《しで》も要る、皆《みんな》と相談して調《ととの》えてくれ」
「何時《いつ》お祭をします」
「すぐ今晩するから急いでくれ」
「何処でします」
「港の口じゃ。供物が出来たら、港の口へ幕を張って、準備《したく》をしてくれ」
「よろしゅうございます」
清吉が往こうとすると権兵衛が留めた。
「待て」
「へい」
「それから、供物の台は、沖の方へ向けて、つまり海の方へ向けるぞ」
「承知しました」
「普請初めの時のようにすればええ。判らん処があれば、総之丞が知っておる、総之丞に聞け」
「よろしゅうございます」
「それから、松明《たいまつ》の準備《したく》もしておいてくれ」
落日に間のない時であった。清吉は急いで出て往った。権兵衛は腕組みして考えこんだ。廊下へ武次がどかどかと来た。
「旦那、湯が沸いたが」
権兵衛は顔をあげた。
「湯か」
「後がつかえるから、早《はよ》う入ってもらいたいが」
「俺は今日は、入らん、今井《いまい》さんに入れと云え」
「殿様が来ておるに、湯に入って垢《あか》を落とせばええに」
武次はまだ何か云いながら往ってしまった。権兵衛は口元に苦笑をからめたが、すぐまた考えこんだ。
その時浜の方で法螺《ほら》の音がしはじめた。人夫に仕事を措《お》かす合図であった。仕事を措いた人夫が囂囂《がやがや》云いながらあがって来た。人夫は地元の者もあれば、隣村の者もあり、また遠くから来て小舎掛をして住んでいる者もあった。
五
間もなく夜になった。其の夜は月がないので暗かった。其の夜の八時《いつつ》すぎになって堰堤の突端に松明の火が燃えだした。其処には明珍長門家政《みょうちんながといえまさ》作の甲冑《かっちゅう》を著《つ》けて錦の小袴を穿《は》き、それに相州行光《そうしゅうゆきみつ》作の太刀を佩《は》いた権兵衛|政利《まさとし》が、海の方に向けてしつらえた祭壇の前にひざまずいていた。そして、其の周囲《まわり》には一木家の定紋《じょうもん》の附いた紫の幔幕《まんまく》を張りめぐらしてあった。
「どうか私の此の体を犠牲《いけにえ》に御取りくださいまして、釜礁《かまばえ》を除くお赦《ゆるし》を得とうございます」
下僚《したやく》たちは権兵衛が云いつけてあるので何人《たれ》も傍に来ている者がなかった。
「此の礁が一日も早く除《と》れまして、此の荒海を往来する諸人《もろびと》をお助けくださいますようにお願いいたします。こうして犠牲《いけにえ》に献《あが》りました私の生命《いのち》は、速刻お召しくださいましても厭《いと》うところでございません」
権兵衛は一人で朝まで祈願をこめていた。朝になって室戸岬の沖あいから朝陽が杲杲《きらきら》と登りかけたところで、人夫たちが集まって来た。
人夫たちは左右の堰堤を伝って己《じぶん》の持場につこうとしていた。礁の方にかかっている五六十人ばかりの人夫は其処からおりるべく祭壇の近くへ来た。それと見て権兵衛は幔幕の一方を解いて姿をあらわした。人夫たちは甲冑の武者を見て驚きの眼をそばだてた。
「あ」
「何事じゃ」
「何人《たれ》じゃ」
「彼《あ》の
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