》をしのばせながら、折戸の処へ往った。と、お露が顔をあげて此方《こっち》を見たが、急に其の眼がいきいきとして来た。
「あなたは、新三郎さま」
 お露も新三郎を思って長い間|気病《きやま》いのようになっているところであった。お露はもう慎みを忘れた。お露は新三郎の手を執《と》って蚊帳の中へ入った。そして、暫《しばらく》くしてお露は、傍にあった香箱を執って、
「これは、お母さまから形見にいただいた大事の香箱でございます、これをどうか私だと思って」
 と云って、新三郎の前へさしだした。それは秋野に虫の象眼の入った見ごとな香箱であった。新三郎は云われるままにそれをもらって其の蓋《ふた》を執ってみた。と、其処へ境の襖《ふすま》を開けて入って来たものがあった。それはお露の父親の平左衛門であった。二人は驚いて飛び起きた。平左衛門は持っていた雪洞《ぼんぼり》をさしつけるようにした。
「露、これへ出ろ」それから新三郎を見て、「其の方は何者だ」
 新三郎は小さくなっていた。
「は、てまえは萩原新三郎と申す粗忽《そこつ》ものでございます、まことにどうも」
 平左衛門は憤《おこ》って肩で呼吸《いき》をしていた。
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