かに肌に迫り、寂《ひっそり》として人の影もなく、ただ鳥のあさり歩く道があるばかりであった。遥かに谷の下の方を見ると、花が咲き乱れて樹の茂った所に、僅《わず》かな人家がちらちらと見えていた。
 王は山をおりてその村へといった。わずかしかない人家は皆|茅葺《かやぶき》であったが、しかし皆風流な構えであった。北向きになった一軒の家があった。門の前は一めんに柳が植《う》わり、牆《かき》の内には桃や杏《あんず》の花が盛りで、それに長い竹をあしらってあったが、野の鳥はその中へ来て格傑《かっけつ》と鳴いていた。
 王はどこかの園亭《にわ》だろうと思ったので、勝手には入らなかった。振りむくとその家の向いに、大きな滑らかな石があった。王はそれに腰をかけて休んでいた。と、牆の内に女がいて、声を長くひっぱって、
「小栄《しょうえい》。」
 と呼ぶのが聞えた。それはなまめかしい細い声であった。王はそのままその声を聞いていると、一人の女が庭を東から西の方へゆきながら、杏の花の小枝を執《と》って、首を俯向《うつむ》けて髪にさそうとして、ひょいと頭を挙《あ》げた拍子《ひょうし》に王と顔を見あわすと、もうそれをささず
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