。僕が引き受けた。」
 呉はそういって帰っていった。王はそれから食事が次第に多くなって、日に日に癒《なお》っていった。そして思いだしては枕の底を探して彼《か》の梅の花を出した。花は萎《しお》れていたけれどもまだ散っていなかった。王は彼の女のことを考えながら、それが彼の女でもあるようにその花をいじった。
 王は呉の返事を待っていたが呉が来ないので、ふしんに思って手紙を出した。呉は用事にかこつけて来なかった。王は怒って悶えていた。母親はまた病気になられては大変だと思ったので、急に他から嫁をもらうことにして、それをちょっと相談したが、王は首を振って振りむかなかった。そして、ただ毎日呉の来るのを待っていたが、どうしても呉が来ないので、王はたちまち怒って呉を怨んだが、ふと思いなおして、三十里はたいした道でもない、他人に頼む必要がないといって、彼の梅の花を袖に入れて、気を張って出かけていった。家の人はそれを知らなかった。
 王は独り自分の影を路伴《みちづ》れにしていった。そして道を聞くこともできないので、ただ南の方の山を望んでいった。ほぼ三十里あまりもゆくと、山が重なりあって、山の気が爽《さわ》やかに肌に迫り、寂《ひっそり》として人の影もなく、ただ鳥のあさり歩く道があるばかりであった。遥かに谷の下の方を見ると、花が咲き乱れて樹の茂った所に、僅《わず》かな人家がちらちらと見えていた。
 王は山をおりてその村へといった。わずかしかない人家は皆|茅葺《かやぶき》であったが、しかし皆風流な構えであった。北向きになった一軒の家があった。門の前は一めんに柳が植《う》わり、牆《かき》の内には桃や杏《あんず》の花が盛りで、それに長い竹をあしらってあったが、野の鳥はその中へ来て格傑《かっけつ》と鳴いていた。
 王はどこかの園亭《にわ》だろうと思ったので、勝手には入らなかった。振りむくとその家の向いに、大きな滑らかな石があった。王はそれに腰をかけて休んでいた。と、牆の内に女がいて、声を長くひっぱって、
「小栄《しょうえい》。」
 と呼ぶのが聞えた。それはなまめかしい細い声であった。王はそのままその声を聞いていると、一人の女が庭を東から西の方へゆきながら、杏の花の小枝を執《と》って、首を俯向《うつむ》けて髪にさそうとして、ひょいと頭を挙《あ》げた拍子《ひょうし》に王と顔を見あわすと、もうそれをささず
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