て使者屋橋の袂にその入口を向けた牡蠣船の前へと行つたが、小さな階段によつて船の中へとおりて行くその入口を正面にすると、足が硬ばつたやうになつて這入れなかつた。
秀夫は後戻りをして牡蠣船の前から又新京橋の方へと行つてはじめの場所に立つて見た。綺麗な女中は琵琶を持つてゐた。澄んだ鈴のやうな声で歌つてゐるらしかつたが声が小さいので聞ゑなかつた。それでは友達の琵琶を聞かされたと言ふのはあの女であつたかと彼は思つた。
その内に女は又此方を見た。紅い唇があり/\と見えるやうに思はれた。今晩は仕方がないから明日の晩は夕飯を喫はずに行つてみやうと思つて彼は懐の勘定をした。懐には十円近い小遣があつた。西洋料理を一皿二皿喫つてビールを一本飲む位なら三四円もあれば良いだらう、と、彼は友達と西洋料理に行つた時の割前を考へ出してゐた。
翌日秀夫は銀行へ行つて課長の眼の無い隙を見て、牡蠣船へ行つたと言ふ友達にそれとなく牡蠣船の勘定などを聞いてゐたが、その夕方下宿へ帰つて来ると湯に入つて夕飯は喫はずに日の暮れるのを待つて出かけた。そして新京橋の上へ来てみると牡蠣船は艫の左側の室の障子が開いて客らしい男の頭が二
前へ
次へ
全11ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
田中 貢太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング