、あんたにひどく厄介をかけたが、その返しをすることもできない、このうえ、私の望みは、早くあの子が旅から帰ってくれて、あんたとの間に、児《こども》ができ、孫ができて、その児や孫達に、あんたが私にしてくれたように、あんたに孝行をさしたい、もし、天がこのことを見ていらっしゃるなら、きっとそうしてくだされる」
母親はそれをやっと言ってから、呼吸《いき》が絶えてしまった。愛卿はその死骸に取り著いて泣いていた。
愛卿はその母親の死骸を白苧村《はくちょそん》に葬ったが、心から母親の死を悲しんでいる彼女は、その悲しみのために健康を害して、げっそり体が痩せて見えた。
それは元の至正十七年のことであった。その前年、張士誠《ちょうしせい》が平江《へいこう》を陥れたので、江浙左丞相達織帖睦邇《こうせつさじょうそうたつしきちょうぼくじ》が苗軍《びょうぐん》の軍師|楊完《ようかん》という者に檄を伝えて、江浙の参政の職を授け、それを嘉興で拒《ふせ》がそうとしたところが、規律のない苗軍は掠奪を肆《ほしいまま》にした。
楊完の麾下《きか》に劉万戸《りゅうまんこ》という者があったが、手兵を連れて突然趙の家へきた。
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