、あんたにひどく厄介をかけたが、その返しをすることもできない、このうえ、私の望みは、早くあの子が旅から帰ってくれて、あんたとの間に、児《こども》ができ、孫ができて、その児や孫達に、あんたが私にしてくれたように、あんたに孝行をさしたい、もし、天がこのことを見ていらっしゃるなら、きっとそうしてくだされる」
母親はそれをやっと言ってから、呼吸《いき》が絶えてしまった。愛卿はその死骸に取り著いて泣いていた。
愛卿はその母親の死骸を白苧村《はくちょそん》に葬ったが、心から母親の死を悲しんでいる彼女は、その悲しみのために健康を害して、げっそり体が痩せて見えた。
それは元の至正十七年のことであった。その前年、張士誠《ちょうしせい》が平江《へいこう》を陥れたので、江浙左丞相達織帖睦邇《こうせつさじょうそうたつしきちょうぼくじ》が苗軍《びょうぐん》の軍師|楊完《ようかん》という者に檄を伝えて、江浙の参政の職を授け、それを嘉興で拒《ふせ》がそうとしたところが、規律のない苗軍は掠奪を肆《ほしいまま》にした。
楊完の麾下《きか》に劉万戸《りゅうまんこ》という者があったが、手兵を連れて突然趙の家へきた。愛卿は大いに驚いて逃げようとしたが、逃げる隙がなくとうとう捕えられて、万戸の前へ引きだされた。
万戸は愛卿の顔を赤濁《あかにごり》のしたいかつい眼でじっと見ていたが、いきなり抱きかかえて一室の中へ入って往った。愛卿はもう悶掻《もが》くのをやめていた。万戸の毛もくじゃらの頬はすぐ愛卿の頬の近くにあった。
「体が、体が汚れております、ちょっと湯あみをさしてくださいまし」
万戸はすこし顔を引いて愛卿の顔を見た。
「なりもこんな汚いなりをしております、ちょっとお待ちを願います」
愛卿はにっと笑って万戸の眼を見入った。
「そうか」
万戸もにっと笑って愛卿を下におろした。
愛卿はも一度万戸の方を見て恥かしそうに笑いながら外へ出た。そして、一室へ入って水で体を洗い、静かに、傍《かたわら》の閤《こざしき》へ入って往ったが、それっきり出てこなかった。
女のくるのを待っていた万戸は、あまり遅いので不審を起して、探し探し閤の中へ往った。閤の中では愛卿が羅巾《らきん》を首にかけて縊《くび》れていた。
万戸は驚いて介抱したが蘇生しないので、綉褥《しとね》に包んで家の背後の圃中《はたなか》にある銀杏
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