をして口を噤《つぐ》んだ。太い左の眉がぴり/\動いてゐた。これは彼にとつては珍らしい事であつた。甲田は何かの拍子で人と爭はねばならぬ事が起つても、直ぐ、一心になるのが莫迦臭いやうな氣がして、笑はなくても可い時に笑つたり、不意に自分の論理を抛出《なげだ》して對手《あひて》を笑はせたりする。滅多に熱心になる事がない。そして、十に一つ我知らず熱心になると、太い眉をぴり/\させる。福富も何時かしら甲田の調子に呑まれてしまつて、眞面目な顏をして聞いてゐたが、聞いて了つてから、
『ほんとにさうですねえ。莫迦正直に督促して歩いたりするより、その方が餘程樂ですものねえ。』と言つた。それから間もなくその月の月末報告を作るべき日が來た。甲田と福富とは歸りに一緒に玄關から出た。甲田は『何うです、祕傳を遣《や》りましたか?』と訊いた。女教師は擽ぐられたやうに笑ひ乍ら、
『いゝえ。』と言つた。
『何故|遣《や》らないんです?』甲田は、當然すべきことをしなかつたのを責めるやうな聲を出した。すると福富は、今日は自分の組の歩合は六十二コンマの四四四である。先月より二コンマの少しだけ多い。段々野良の仕事が忙がしくなつて
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