の前に、この村で唯一軒の木賃宿がある。今朝早く、福富がいつものやうに散歩して歸つて來て、家の前に立つてゐると、昨日の男がその木賃宿から出て南の方――○○市の方――へ行つた。間もなく木賃宿の嚊が外に出て來たから、訊いて見ると、その男は昨日日が暮れてから來て泊つたのだといふ。
『人違ひですよ。屹度《きつと》』と甲田は言つた。然し心では矢張りあの學生だらうと思つた。すると福富は、
『否《いゝえ》、違ひません、決して違ひません。』と主張して、衣服《きもの》の事まで詳しく言つた。そして斯う附け加へた。
『屹度、なんですよ。先生からお金《あし》を貰つたから歩くのが可厭《いや》になつて、日の暮れまで何處かで寢てゐて、日が暮れてから、密《そつ》と歸つて來て此村へ泊つて行つたんですよ。』
さう聞くと、甲田は餘り好い氣持がしなかつた。學校へ行つてから、高等科へ來てゐる木賃宿の子供を呼んで、これ/\の男が昨夜《ゆうべ》泊つたかと訊いた。子供は泊つたと答へた。甲田は愈俺は誑《だま》されたと思つた。そして、其奴《そいつ》が何か學校の話でもしなかつたかと言つた。子供は、何故こんな事を聞かれるのかと心配相な顏をし
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