て来たが、例《いつも》の女中が恰度丼を二つ載せた膳を持つて来た所で、
『オヤ。』
と尻上りに叫んで途を披いた。
『モウ要《い》らん。』と凄じく怒鳴るや否や、周章《あたふた》下駄を突懸けて、疾風の様に飛出したが、小路の入口でイヤと云ふ程電信柱に額を打付《ぶつつ》けた。後では、男女を合せて五六人の高い笑声が、ドツと許り喊《とき》の声の様に聞えた様であつた。


 二町許り駆けて来ると、セイセイ呼吸が逸《はづ》んで来て、胸の動悸のみ高い。まだ忌々《いまいま》しさが残つて居たが、それも空腹《すきつぱら》には勝てず、足を緩めて、少し動悸が治まると、梅沢屋と云ふ休坂下《やすみざかした》の蕎麦屋へ入つた。
『お誂へは?』と反歯《そつぱ》の女中に問はれて、「天麩羅」と云はうとしたが、先刻の若い男の顔がチラと頭に閃いたので、
『何でも可い。』と云つて了つた。
『天麩羅に致しませうか? それとも月見なり五目なり、柏《かしは》も直ぐ出来ますが。』
『※[#「口+云」、第3水準1−14−87]《うん》、その、何《ど》れでも可い。柏でも可い。』
 かくて渠は、一滴の汁も残さず柏二杯を平らげたが、するとモウ心にも身体にも坐りがついて、先刻の事を考へると、我ながら滑稽《をかし》くなつて遂口に出して笑つて見る。手を叩いて更に「天麩羅二つ」と吩咐《いひつ》けた。
 それも平らげて了ふと、まだ何か喰ひたい様だけれど、モウ腹が大分張つて来たので、止めた。と、眠気が催すまでに悪落着がして来て、悠然《ゆつたり》と改めて室の中を見廻したが、「敷島」と「朝日」と交代に頻《しきり》に喫ひながら、遂々《たうたう》ゴロリと横になつた。それでも、階段に女中の足音がする度、起直つて知らん振をして居たが、恁※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《こんな》具合にして渠は、階下《した》の時計が十時を打つまで、随分長い間此処に過した。一度、手も拍たぬのに女中が来て、「お呼びで厶いますか?」と襖を開けたが、それはモウ帰つて呉れと云ふ謎だと気が付いたけれど、悠然と落着いて了つた渠の心は、それしきの事で動くものでない。
 恁許《かばか》り悠然した心地は渠の平生に全くない事であつた。顔には例の痙攣も起つて居ない。物事が凡て無造作で、心配一つあるでなく、善とか悪とか云ふ事も全く脳裡《あたま》から消えて了つて、渠はそれからそれと静かに考へを廻らして居たが、第一に多少の思慮を費したのは、小宮洋服店から如何にしてモツト金を取るべきかと云ふ問題であつた。それには自分一人よりも相棒のある方が都合が可いと考へついたが、渠は其人選にアレかコレかと迷つた末、まだ何も知らぬ長野の奴を引張り込まうと決心した。
 と、渠は其長野の馬鹿に気の利かぬ事を思ひ出して、一人で笑つた。それは昨日の事、奴が竹山から東京電報の翻訳を命ぜられて、唯五六通に半時間もかかつて居たが、
『ええ一寸伺ひますが、……怎《どう》もまだ慣れませんで(と申訳をしておいて、)カンカインとは怎《どう》かくんでせうか。』
『感化院さ。』と云つて竹山が字を書いて見せた。すると、
『ア然うですか。ぢやモ一つ、ええと、鎌田といふ大臣がありましたらうか? 一寸聞きなれない様ですけれど。』
『無い。』
『然うですか喃《なあ》。イヤ其、電文にはカナダとあるんですけど、金田といふ大臣は聞いた事がないから、鎌田の間違ぢやないかと思ひまして。』
『ドレ見せ給へ。』と竹山は其電報を取つて、『何だ、「加奈太《カナダ》大臣ルミユー氏」ぢやないか。今度日本へ来た加奈太政府の労働大臣さ。』
『然うですか。怎も慣れませんもので。』
 これで皆が思はず笑つたので、流石に長野も恥かしくなつたと見えて、顔を真赤にしたが、今度は自分の袂を曳いて、「陸軍ケイホウのケイホウは怎う書きませう。」と小声で訊ねる、「警報さ」と書いて見せると、「然うですか、怎も有難う。」と云つたが、「何だい、何だい?」と竹山が云ふので、「陸軍ケイホウです。」と答へると、「ケイホウは刑罰の刑に法律の法だぜ。」と云ふ。俺もハツとしたが、長野は「然うですか。」と云つたきり、俺には何とも云はず、顔を赤くした儘、其教へられた通り書いて居た。すると竹山は、以後《これから》毎日東京や札幌の新聞を読めと長野に云つて、
『鎌田といふ大臣のあるか無いかは理髪店《とこや》の亭主だつて知つてるぢやないか。東京新聞を読んで居れば、刻下の問題の何であるかが解るし、翌日の議会の日程に上る法律案などは札幌小樽の新聞の電報に載つてるし、毎日新聞さへ読んでれば電報の訳せん事がない筈なんだ。昨晩だつて君、九時頃に来た電報の「北海道官有林附与問題」といふのを、君が「不用問題」と書いたつて、工場の小僧共が笑つてたよ。』
 長野の真赤にした大きい顔が、霎時《しばし》渠の眼を去らないで、悠然《ゆつたり》とした笑を続けさせて居た。
 それから渠は、種々《いろいろ》と竹山の事も考へて見た。竹山が折角東京へ乗込んで詩集まで出して居ながら、新聞記者などになつて北海道の隅ツこへ流れて来るには、何かしら其処に隠れた事情があるに違ひない。屹度暗い事でもして来たんだらう。然うでなければ、と考へて渠は四年前の竹山について、それかこれかと思出して見たが、一度下宿料を半金だけ入れて、残部《あと》は二三日と云つたのが、遂々《たうたう》十日も延びたので、下宿のアノ主婦が少し心配して居つた外、これぞと云ふ事も思出せなかつた。
 竹山の下宿は社に近くて可い、と思ふ。すると又病院の事が心に浮ぶ。それとなき微笑《ほほゑみ》が口元に湧いて、梅野の活溌なのが喰ひつきたい程可愛く思はれる。梅野は美しい、白い。背は少し低いが……アノ真白《ましろ》な肥つた脛、と思ふと、渠の口元は益々緩んだ。医者の小野山も殆んど憎くない。不図したら彼奴も此頃では、看護婦長に飽きて梅野に目をつけてるのぢやないかとも考へたが、それでも些《ちつ》とも憎くない。梅野は美しいから人の目につく、けれども矢張|彼女《あれ》は俺のもんさ。末は怎でも今は俺のもんさ。彼女の挙動《やうす》はまだ男を知つて居ないらしいが、那※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《あんな》に若く見える癖に二十二だつていふから、もう男の肌に触れてるかも知れぬ。それも構はんさ。大抵の女は、表面《うはべ》こそ処女だけれども、モウ二十歳を越すと男を知つてるから喃《なあ》。…………
 十時の時計を聞くと、渠は勘定を済ませて蕎麦屋から出た。休坂を上つて釧路座の横に来ると、十日程前に十軒許り焼けた火事跡に、雪の中の所々から、真黒な柱や棟木が倒れた儘に頭を擡げて居た。白い波の中を海馬《かいば》が泳いでる様に。


 少し行くと、右側のトある家の窓に火光《あかり》がさして居る。渠は其|窓側《まどぎは》へ寄つて、コツコツと硝子を叩いた、白い窓掛《カーテン》に手の影が映つて半分許り曳かれると、窓の下の炬燵《こたつ》に三十五六の蒼白い女が居る。
『蝶吉さんは未だ帰らないの?』
と優しい低い声で云つた。
『え、未だ。』と女は窓外《そと》を覗いたが、『マア野村さんですか。姐さん達は十一時でなくちや帰りませんの。』
 これは渠がよく遊びに行く芸者の宅《うち》で、蝶吉と小駒の二人が、「小母《をば》さん」と呼ぶ此女を雇つて万事の世話を頼んで居る。日暮から十二時過までは、何日でも此陰気な小母さんが一人此炬燵にあたつてるので、野村は時として此小母さんを何とか仕ようと思ふ事がないでもない。女は窓掛に手をかけた儘、入れとも云はず窓外《そと》を覗いてるので、渠は構はず入つて見ようとも思つたが、何分にも先刻程《さきほど》から気が悠然《ゆつたり》と寛大になつてるので、遂ぞ起した事のない「可哀さうだ。」といふ気がした。
『又来るよ。』と云ひ捨てた儘、彼は窓側《まどぎは》を離れて、「主婦《おかみ》はもう大丈夫寝たナ。」と思ひ乍ら家路へ歩き出した。
 四角《よつかど》を通越して浦見町が、米町になる。二町許り行くと、左は高くなつた西寺《にしでら》と呼ぶ真宗の寺、それに向合つた六軒長屋の取突《とつつき》の端が渠の宿である。案の如く入口も窓も真暗になつて居る。渠は成るべく音のしない様に、入口の硝子戸を開けて、閉《た》てて、下駄を脱いで、上框《あがりがまち》の障子をも開けて閉てた。此室《ここ》は長火鉢の置いてある六畳間。亭主は田舎の村役場の助役をして居るので、主婦と其甥に当る十六の少年《こども》と、三人の女児《をんなのこ》とが、此室に重なり合ふ様になつて寝て居るのだが、渠は慣れて居るから、其等の顔を踏付ける事もなく、壁側《かべぎは》を伝つて奥の襖《からかみ》を開けた。
 此室《ここ》も亦六畳間で、左の隅に据ゑた小さい机の上に、赤インキやら黒インキやらで散々楽書をした紙笠の、三分心の洋燈が、螢火ほどに点つて居た。不取敢その心《しん》を捻上げると、パツと火光が発して、暗《やみ》に慣れた眼の眩しさ。天井の低い、薄汚い室の中の乱雑《だらしなさ》が一時に目に見える。ゾクゾクと寒さが背に迫るので、渠は顔を顰蹙《しか》めて、火鉢の火を啄《ほじく》つた。
 同宿の者が三人、一人は入口の横の三畳を占領してるので、渠は郵便局へ出て居る佐久間といふ若い男と共に此六畳に居るのだ。佐久間はモウ寝て居て、然も此方《こつち》へ顔を向けて眠つてるが、例の癖の、目を全然《すつかり》閉ぢずに、口も半分開けて居る。渠は、スヤスヤと眠つた安らかな其顔を眺めて、聞くともなく其寝息を聞いて居たが、何かしら怎う自分の心が冷えて行く様な気がする。此男は何時でも目も口も半分開けて寝てるが、俺も然《さ》うか知ら。俺は口だけ開けてるかも知れぬ、などと考へる。
 煙草に火をつけたが、怎《どう》したものか美味《うま》くない。気がつくとそれは「朝日」なので、袂を探して「敷島」の袋を出したが、モウ三本しか残つて居なかつた。馬鹿に喫んで了つたと思ふと、一本出して惜しさうに左の指で弄《いぢく》り乍ら、急いで先《せん》ののを、然も吸口まで焼ける程吸つて了つた。で、「敷島」に火をつけたが、それでも左程|美味《うま》くない。口が荒れて来たのかと思ふと、煙が眼に入る。渠は渋い顔をして、それを灰に突込んだ。
 眼を閉ぢずに寝るとは珍しい男だ、と考へ乍ら、また佐久間の顔を見た。すると、自分が、一生懸命「閉ぢろ、閉ぢろ。」と思つて居ると、佐久間は屹度アノ眼を閉ぢるに違ひないと云ふ気がする。で、下腹にウンと力を入れて、ギラギラする眼を恐ろしく大きくして、下唇を噛んで、佐久間の寝顔を睨め出した。寝息が段々|急《せは》しくなつて行く様な気がする。一分、二分、三分、……佐久間の眼は依然として瞬きもせず半分開いて居る。
 何だ馬鹿々々しいと気のついた時、渠は半分腰を浮かして、火鉢の縁に両腕を突張つて、我ながら恐ろしい形相《ぎやうさう》をして居た。額には汗さへ少し滲み出して居る。渠は平手でそれを拭つて腰を据ゑると、今迄顔が熱《ほて》つて居たものと見えて、血が頭からスウと下りて行く様な気がする。動悸も少ししてゐる。何だ、馬鹿々々しい、俺は怎して恁う時々、浅間しい馬鹿々々しい事をするだらうと、頻りに自分と云ふものが軽蔑される、…………
 止度もなく、自分が浅間しく思はれて来る。限りなく浅間しいものの様に思はれて来る。顔は忽ち燻《くす》んで、喉がセラセラする程胸が苛立つ。渠は此世に於て、此自蔑の念に襲れる程厭な事はない。
 と、隣室でドサリといふ物音がした。咄嗟《とつさ》の間に渠は、主婦《おかみ》が起きて来るのぢやないかと思つて、ビクリとしたが、唯寝返りをしただけと見えて、立つた気色《けはひ》もせぬ。ムニヤムニヤと少年が寝言を言ふ声がする。漸《やつ》と安心すると、動悸が高く胸に打つて居る。
 処々裂けた襖、だらしなく吊下つた壁の衣服、煤ばんで雨漏の痕跡《かた》がついた天井、片隅に積んだ自分の夜具からは薄汚い古綿が喰《は》み出してる
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