姉の所へ行つて来ましたの。マア貴方は酔つていらつしやるわね。』
『酔つて? 然うです、然うです、少し飲《や》つて来ました。だが女一人で此路は危険《けんのん》ですぜ。』
『慣れてますもの。』
『慣れて居ても危険は矢張危険ぢやないですか。危険! 若しかすると恁うしてる所へ石が飛んで来るかも知れません、石が。』と四辺を見廻したが、一町程|先方《むかう》から提燈が一つ来るので、渠は一二歩|後退《あとずさ》つた。『僕だつて一人歩いてると、チト危険な事があります。』
『マア。ですけど今夜は、宅が風邪の気味で寝《やす》んでるもんですから、厭だつたけど一人行つて来ましたの。』
『然うですか。』と云つたが、フン、宅とは何だい? 俺の前で嬶《かかあ》ぶらなくたつて、貴様みたいな者に手をつけるもんか。と云ふ気がして、ツイと女を離れたなり、スタ/\駆け出した。腥さい笑に眼は暗《やみ》ながらギラギラ光つて居た。
 恁※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《こんな》風に、彼は一時間半か二時間の間、盲目《めくら》滅法駆けずり廻つて居たが、其間に酔が全然醒めて了つて、緩んだと云つても零度近い夜風の寒さが、犇々《ひしひし》と身に沁みる。頤《おとがひ》を埋めた首巻は、夜目にも白い呼気《いき》を吸つて、雪の降つた様に凍つて居た。雲一つない鋼鉄色《はがねいろ》の空には、鎗の穂よりも鋭い星が無数に燦《きらめ》いて、降つて来る光が、氷り果てた雪路の処々を、鏡の欠片《かけら》を散らかした様に照して居た。
 三度目か四度目に市庁坂を下りる時、渠は辷るまいと大事を取つて運んで居た足を不図留めて、広々とした港内《みなと》の夜色を見渡した。冷い風が喉から胸に吹き込んで、紛糾《ごちやごちや》した頭脳《あたま》の熱さまでスウと消える様な心地がする。星明りに薄《うつす》りと浮んだ阿寒山《あかんざん》の雪が、塵も動かぬ冬の夜の空を北に限つて、川向《かはむかひ》の一区域《ひとしきり》に燈光《ともしび》を群がらせた停車場から、鋭い汽笛が反響も返さず暗を劈《つんざ》いた。港の中には汽船《ふね》が二艘《にはい》、四つ五つの火影《ほかげ》がキラリ/\と水に散る。何処ともない波の音が、絶間《たえま》もない単調の波動を伝へて、働きの鈍り出した渠の頭に聞えて来た。
 と、渠は烈しい身顫ひをして、再《また》しても身を屈《こご》ませ乍ら、大事々々に足をつり出したが、遽かに腹が減つて来て、足の力もたど/\しい。喉からは変な水が湧いて来る。二時間も前から鳩尾《みぞおち》の所に重ねて、懐に入れておいた手で、襯衣の上からズウと下腹まで摩《さす》つて見たが、米一粒入つて居ぬ程凹んで居る。渠はモウ一刻も耐らぬ程食慾を催して来た。それも其筈、今朝九時頃に朝飯を食つてから、夕方に小野山の室で酒を飲んで鯣の焙《あぶ》つたのを舐《しやぶ》つた限《きり》なのだ。
 浅間しい事ではあるが、然しこれは渠にとつて今日に限つた事でなかつた。渠は米町裏のトある寺の前の素人下宿に宿つて居るけれど、モウ二月越《ふたつきごし》下宿料を一文も入れてないので、五分と顔を見てさへ居れば、直ぐそれを云ひ出す宿の主婦《おかみ》の面《つら》が厭で、起きて朝飯を食ふと飛び出した儘、昼飯は無論食はず、社から退けても宿へ帰らずに、夕飯にあり付きさうな家を訪ね廻る。でなければ、例の新聞記者と肩書を入れた名刺を振廻して、断られるまでは蕎麦屋牛鍋屋の借食《かりぐひ》をする。それも近頃では殆んど八方塞がりになつたので、少しの機会も逸《のが》さずに金を得る事ばかり考へて居るが、若し怎《どう》しても夕飯に有付けぬとなると、渠は何処かの家に坐り込んで、宿の主婦の寝て了ふ十時十一時まで、用もない喫茶談《ちやのみばなし》を人の迷惑とも思はぬ。十五円の俸給は何処に怎《どう》使つて了ふのか、時として二円五十銭といふ畳付《たたみつき》の下駄を穿いたり、馬鹿に派手な羽織の紐を買つたりするのは人の目にも見えるけれど、残余《あと》が怎なるかは、恐らく渠自身でも知つて居まい。
 餓ゑた時程人の智《かしこ》くなる時はない。渠は力の抜けた足を急がせて、支庁坂を下《お》りきつたが、左に曲ると両側の軒燈《ともしび》明るい真砂町の通衢《とほり》。二町許りで、トある角に立つた新築の旅館の前まで来ると、渠は遽かに足を緩めて、十五六間が程を二三度行きつ戻りつして居たが、先方《むかう》から来た外套の頭巾目深の男を遣過《やりすご》すと、不図|後前《あとさき》を見廻して、ツイと許り其旅館の隣家《となり》の軒下に進んだ。
 硝子戸が六枚、其内側に吊した白木綿の垂帛《カーテン》に洋燈の光が映えて、廂の上の大きなペンキ塗の看板には、「小宮洋服店」と書いてあつた。
 渠は突然《いきなり》其硝子戸を開けて、腰を屈めて白木綿を潜つたが、左の肩を上げた其影法師が、二分間許りも明瞭《くつきり》と垂帛《カーテン》に映つて居た。
 此家は、三日程前に、職人の一人が病死して葬式を出した家であつた。


 三十分許り経つと、同じ影法師が又もや白木綿に映つて、「態々《わざわざ》お出下すつたのに何もお構ひ申しませんで。」といふ女の声と共に、野村は戸外へ出て来た。
 十間も行くと、旅館の角に立止つて後を振顧《ふりかへ》つたが、誰も出て見送つてる者がない。と渠は徐々《そろそろ》歩き出しながら、袂を探つて何やら小さい紙包を取出して、旅館の窓から漏れる火光《あかり》に披《ひら》いて見たが、
『何だ、唯《たつた》一円五十銭か!』
と口に出して呟いた。下宿料だけでも二月分で二十二円! 少くとも五円は出すだらうと思つたのに、と聞えぬ様にブツ/\云つて、チヨツと舌打をしたが、気が付いた様に急がしく周囲《あたり》を見廻した。それでも渠は珍らしさうに五十銭銀貨三枚を握つて見て、包紙は一応|反覆《ひつくらかへ》して何か書いてあるかと調べた限《き》り、皺くちやにして捨てゝ了つたが、又袂を探してヘナ/\になつた赤いレース糸で編んだ空財布を出して、それに銀貨を入れて、再び袂に納《しま》つた。
 さてこれから怎したもんだらう? と考へたが、二三軒向うに煙草屋があるのに目を付けて、不取敢《とりあへず》行つて、「敷島」と「朝日」を一つ宛《づつ》買つて、一本|点《つ》けて出た。モ少し行くと右側の狭い小路の奥に蕎麦屋があるので、一旦其方へ足を向けたが、「イヤ、先づ竹山へ行つて話して置かう。」と考へ付いて、引返して旅館の角を曲つたが、一町半許りで四角になつて居て、左の角が例の共立病院、それについて曲ると、病院の横と向合《むかひあ》つて竹山の下宿がある。
 竹山の室は街路《みち》に臨んだ二階の八畳間で、自費で据附けたと云ふ暖炉が熾んに燃えて居た。身の廻りには種々《いろいろ》の雑誌やら、夕方に着く五日前の東京新聞やら手紙やらが散らかつて居て、竹山は読みさしの厚い本に何かしら細かく赤インキで註を入れて居たが、渠は入ると直ぐ、ボーツと顔を打つ暖気《あたたかさ》に又候《またぞろ》思出した様に空腹を感じた。来客の後と見えて、支那焼の大きな菓子鉢に、マスマローと何やらが堆《うずた》かく盛つて、煙草盆の側《わき》にあるのが目に附く。明るい洋燈の光りと烈しい気象の輝く竹山の眼とが、何といふ事もなしに渠の心を狼狽《うろたへ》させた。
『頭痛が癒りましたか?』と竹山に云はれた時、その事はモウ全然忘れて居たので、少なからず周章《どぎまぎ》したが、それでも流石、
『ハア、頭ですか? イヤ今日は怎も失礼しました。あれから向うの共立病院へ来て一寸診て貰ひましたがねす。ナニ何でもない、酒でも飲めば癒るさツて云ふもんですから、宿へ帰つて今迄寝て来ました。主婦《おかみ》の奴が玉子酒を拵《こしら》へてくれたもんですから、それ飲んで寝たら少し汗が出ましたねす。まだ底の方が些《ちよつ》と痛みますどもねす。』と云つて、「朝日」を取出した。『少し聞込んだ事があつたんで、今廻つて探つて見ましたが、ナーニ嘘でしたねす。』
『然うかえ、でもマア悠乎《ゆつくり》寝《やす》んでれば可かつたのに、御苦労でしたな。』
『小宮といふ洋服屋がありますねす。』と云つて、野村は鋭どい眼でチラリと竹山の顔を見たが、『彼家《あそこ》で去年の暮に東京から呼んだ職人が、肋膜に罹《かか》つて遂に此間死にましたがねす。それを其、小宮の嬶が、病気してゝ稼がないので、ウント虐待したッて噂があつたんですから、行つて見ましたがねす。』
『成程。』と云つたが、竹山は平日《いつも》の様に念を入れて聞く風でもなかつた。
『ナーニ、恰度アノ隣の理髪店《とこや》の嬶が、小宮の嬶と仲が悪いので、其※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]事を云ひ触らしたに過ぎなかつたですよ。』と云つて、軽く「ハッハハ。」と笑つたが、其実渠は其噂を材料《たね》に、幸ひ小宮の家は一寸有福でもあり「少くも五円」には仕ようと思つて、昨日も一度押かけて行つたが、亭主が留守といふので駄目、先刻《さつき》再《また》行つて、矢張亭主は居ないと云つたが、嬶の奴頻りに其を弁解してから、何れ又|夫《やど》がお目にかゝつて詳しく申上げるでせうけれどもと云つて、一円五十銭の紙包を出したのだ。
 これと云ふ話も出なかつたが、渠は頻りに「ねす」を振廻はして居た。一体渠は同じ岩手県でも南の方の一関近い生れで、竹山は盛岡よりも北の方に育つたから、南部藩と仙台藩の区別《ちがひ》が言葉の調子にも明白《あきらか》で、少しも似通つた所がないけれども、同県人といふ感じが渠をしてよく国訛りを出させる。それに又渠は、其国訛りを出すと妙に言葉が穏《おとな》しく聞える様な気がするので、目上の者の前へ出ると殊更「ねす」を沢山使ふ癖があつた。
 程なくして渠は辞して立つたが、竹山は別に見送りに立つでもなかつた。で、自分一人室の中央に立上ると、妙に頭から足まで竹山の鋭い眼に度《はか》られる様な心地がして、畳触りの悪い自分の足袋の、汚なくなつて穴の明いてるのが心恥《うらはづ》かしく思はれた。
 戸外《そと》へ出ると、一寸病院の前で足を緩めたが、真砂町へ来るや否や、早速新しい足袋を買つて、狭い小路の奥の蕎麦屋へ上つた。
 二階の四畳半許りの薄汚い室、座蒲団を持つて入つて来たのが、女中でなくて、印半纏《しるしばんてん》を着た若い男だつたので、渠は聞えぬ程に舌打をしたが、「天麩羅二つ。」と吩附《いひつけ》てやつてドシリと胡坐をかくと、不取敢急がしく足袋を穿き代へて、古いのを床の間の隅ツこの、燈光《あかり》の届かぬ暗い所へ投出した。「敷島」を出して成るべく悠然《ゆつたり》と喫ひ出したが、一分経つても、二分過ぎても、まだお誂へが来ない。と、渠は立つて行つて其古足袋を、壁の下の隅に、大きな鼠穴が明いてる所へヘシ込んで了つた。
 間もなく下では何か物に驚いた声がして、続いて笑声が起つたが、渠は「敷島」を美味《うま》さうに吹かしながら、呼吸を深くして腹を凹ましたり、出したり、今日位腹を減らした事がないなどと考へて居た。
 所へ階段《はしご》を上る足音がしたので、来たナと思つたから、腹の運動を止めて何気ない顔をしてると、以前の若い男が小腰を屈めて障子を明けた。
『ヘイ、これは旦那のお足袋ぢや厶いませんか? 鼠が落《おつ》こちたかと思つたら、足袋が降つて来たと云ふので、台所ぢや貴方、吃驚いたしましたんで。ヘイ、全く、怎も、ヘイ。』と妙な薄笑をし乍ら、今し方壁の鼠穴へヘシ込んだ許りの濡れた古足袋を、二つ揃へて敷居際に置いたなり、障子を閉めて狐鼠々々《こそこそ》下りて行く。
 呆然として口を開いた儘聞いて居た渠は、障子が閉まると、クワツと許り上気して顔が火の出る程赤くなつた。恥辱の念と憤怒の情が、ダイナマイトでも爆発した様に、身体中の血管を破つて、突然《いきなり》立上つたが、腹が減つてるのでフラフラと蹌踉《よろめ》く。
 よろめく足を踏み耐《こた》へて、室から出ると、足音荒く階段を下り
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