…田川が此方に居るとすると俺は要らなくなるし……田川が帯広に行くと、然うすると俺も帯広にやられるか知ら……ハテナ……恁《か》うと……それはまだ後の事だが……今日は怎《どう》か知ら、今日は?……
『だがね、君。』と、稍あつてから低めた調子で竹山が云つた時、其声は渠の混雑した心に異様に響いて、「矢張今日限りだ」といふ考へが征矢《そや》の如く閃いた。
『だがね、君、僕は率直に云ふが、』と竹山は声を落して眼を外らした。『主筆には君に対して余り好い感情を有《も》つてない様な口吻が、時々見えぬでも無い。……』
 ソラ来た! と思ふと、渠は冷水を浴びた様な気がして、腋の下から汗がタラタラと流れ出した。と同時に、怎やら頭の中の熱が一時|颯《さつ》と引いた様で、急に気がスツキリとする。凝《じつ》と目を据ゑて竹山を見た。
『今朝、小宮洋服店の主人が主筆ン所《とこ》へ行つたさうだがね。』
『何と云つて行きました?』と不思《おもはず》。
『サア、田川が居たから詳しい話も聞かなかつたが……。』竹山は口を噤《つぐ》んで渠の顔を見た。
『竹山さん、私は、』と哀し気な顫声《ふるひごゑ》を絞つた。『私はモウ何処へも行く
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