せて、其窓に近づいた。息を殺して中を覗つてるらしい。竹山も息を殺してそれを見下して居た。
 一分も経つたかと思ふと、また女の影が映つて、それが小さくなつたと見ると、ガタリと窓が鳴つた。と、男は強い弾機《ばね》に弾かれた様に、五六歩|窓側《まどぎは》を飛び退《すさ》つた。「呀ツ」と云ふ女の声が聞えて、間もなく火光がパツと消えた。窓を開けようとして、戸外《そと》の足音に驚いたものらしい。
 男は、前よりも俛首《うなだ》れて、空気まで凍つた様な街路《みち》を、ブラリブラリと小さい影を曳いて、洲崎町[#「洲崎町」は底本では「州崎町」]の方へ去つた。


 翌日、野村良吉が社に出たのは十時少し過であつた。ピクリピクリと痙攣が時々顔を襲うて、常よりも一層沈んで見えた。冷たい疲労の圧迫が、重くも頭脳《あたま》に被さつて居る。胸の底の底の、ズツト底の方で、誰やら泣いて居る様な気がする。何の為に泣くとも解らないが、何《いづ》れ誰やら泣いて居る気がする。
 気が抜けた様に※[#「りっしんべん+夢」の「夕」に代えて「目」、第4水準2−12−81]乎《ぼうつ》として編輯局に入ると、主筆と竹山と、モ一人の洋服を
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