た。胸の中で「一円五十銭!」と叫ぶ。脅喝、詐偽、姦通、強姦、喰逃……二十も三十も一時に喊声をあげて頭脳《あたま》を蹂躙《ふみにじ》る。見まい、聞くまい、思出すまいと、渠は矢庭に机の上の『創世乃巻』に突伏した。それでも見える、母の顔が見える。胸の中で誰やら「貴様は罪人だ。」と叫ぶ、「警察へ行け。」と喚く。と渠は、横浜で唯《たつた》十銭持つて煙草買ひに行つた時、二度三度呼んでも、誰も店に出て来なかつたので、突然「敷島」を三つ浚《さら》つて遁げた事を思出した。渠はキリキリと歯を喰しばつた。噫、俺は一日として、俺は何処へ行つても、俺は、俺は……と思ふと、凄じい髭面が目の前に出た。それは渠が釧路へ来て泊る所のなかつた時、三晩一緒に暮した乞食だ。知人岬《しりとさき》の神社に寝た乞食だ。俺はアノ乞食の嬶を二度姦した! 乞食の嬶を、この髭面の嬶を……髭面がサツと朱を帯びた。カインの顔だ。アダムの子のカインの顔だ。何処へ逃げても御空《おそら》から大きな眼《まなこ》に睨められたカインの顔だ。土穴を掘つて隠れても大きな眼に睨められたカインの顔だ。噫、カインだ、カインだ、俺はカインだ!
 俺はカインだ! と総
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