。ズーツと其等を見廻す渠の顔には何時しか例の痙攣が起つて居た。
噫《ああ》、浅間しい! 恁《か》う思ふと、渠はポカンとして眠つて居る佐久間の顔さへ見るも厭になつた。渠は膝を立直して小さい汚ない机に向つた。
埃だらけの硯、歯磨の袋、楊枝、皺くちやになつた古葉書が一枚に、二三枚しかない封筒の束、鉄筆《ペン》に紫のインキ瓶、フケ取さへも載つて居る机の上には、中判の洋罫紙を紅いリボンで厚く綴ぢた、一冊の帳面がある。表紙には『創世乃巻』と気取つた字で書いて、下には稍《やや》小さく「野村|新川《しんせん》。」
渠は直ちにそれを取つて、第一頁を披いた。
これは渠が十日許り前に竹山の宿で夕飯を御馳走になつて、色々と詩の話などをした時思立つたので、今日病院で横山に吹聴した、其所謂六ヶ月位かかる見込だといふ長篇の詩の稿本であつた。渠は、其題の示す如く、此大叙事詩に、天地初発の暁から日一日と成された、絶大なる独一真神の事業を謳《うた》つて、アダムとイヴの追放に人類最初の悲哀の由来を叙し、其|掟《おきて》られたる永遠の運命を説いて、最後の巻には、神と人との間に、朽つる事なき梯子をかけた、耶蘇基督の出現
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