は凝然《ぢつ》と竹山の筆の走るのを見た儘、種々《いろん》な事が胸の中に急がしく往来して居て、さらでだに不気味な顔が一層険悪になつて居た。竹山も主筆も恰《あたか》も知らぬ人同志が同じ汽車に乗り合した様に、互にそ知らぬ態《さま》をして居る。何方《どつち》も傍に人が居ぬかの様に、見向くでもなければ一語を交すでもない。渠《かれ》は此《この》態《さま》を見て居て又候《またぞろ》不安を感じ出して来た。屹度俺の来るまでは二人で何か――俺の事を話して居たに違ひない。恁《か》うと、今朝俺の出社したのは九時半……否《いや》十時頃だつたが、それから三時間余も恁う黙つて居ると云ふ事はない。屹度話して居たのだ。不図すると俺の来る直《ぢ》き前まで……或は其時既に話が決つて了つて、恰度其処へ俺が入つたのぢやないか知ら。と、上島にも長野にも硯箱があるのに、俺ンのを使つたのは誰であらう。然うだ、此椅子も暖炉の所へ行つて居た。アレは社長の癖だ。社長が来たに違ひない。先刻《さつき》事務の広田に聞いて呉れば可《よ》かつたのにと考へたが、若しかすると、二人で相談して居た所へ社長が来て、三人になつて三人で俺の事を色々悪口し合つて
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