、……然《さ》うだ、此事を云ひ出したのは竹山に違ひない。上島と云ふ奴酷い男だ。以前は俺と毎晩飲んで歩いた癖に、此頃は馬鹿に竹山の宿へ行く。行つて俺の事を喋つたに違ひない。好し、そんなら俺も彼奴《あいつ》の事を素破抜《すつぱぬ》いてやらう、と気が立つて来て、卑怯な奴等だ、何も然う狐鼠々々《こそこそ》相談せずと、退社しろなら退社しろと瞭《きつぱ》り云つたら可いぢやないか、と自暴糞《やけくそ》な考へを起して見たが、退社といふ辞《ことば》が我ながらムカムカしてる胸に冷水《ひやみづ》を浴せた様に心に響いた。飢餓《うゑ》と恐怖《おそれ》と困憊《つかれ》と悔恨《くい》と……真暗な洞穴《ほらあな》の中を真黒な衣を着てゾロゾロと行く乞食の群! 野村は目を瞑《つぶ》つた。
 白く波立つ海の中から、檣《ほばしら》が二本出て居る様が見える。去年の秋、渠《かれ》が初めて此釧路に来たのは、丁度竹の浦丸といふ汽船が、怎《どう》した錯誤《あやまり》からか港内に碇泊した儘沈没した時で、二本の檣《ほばしら》だけが波の上に現はれて居た。風の寒い浜辺を、飢ゑて疲れて、古袷一枚で彷徨《うろつ》き乍ら、其檣を眺むるともなく眺めて
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