、誰が留めても応《き》かずに遂々《たうたう》退社の辞を草した。幸ひ此方《こつち》の社が拡張の機運に際して居たので、社長は随分と破格な自由と待遇を与へて竹山を併《つ》れて来たのだと云ふ事であつた。打見には二十七八に見える老《ふ》けた所があるけれど、実際は漸々《やうやう》二十三だと云ふ事で、髯が一本も無く、烈しい気象が眼に輝いて、少年《こども》らしい活気の溢れた、何処か恁《か》うナポレオンの肖像画に肖通つた所のある顔立で、愛想一つ云はぬけれど、口元に絶やさぬ微笑に誰でも人好《ひとずき》がする。一段二段の長い記事を字一つ消すでなく、スラスラと淀みなく綺麗な原稿を書くので、文選小僧が先づ一番先に竹山を讃めた。社長が珍重してるだけに恐ろしく筆の立つ男で、野村もそれを認めぬではないが、年が上な故《せゐ》か怎《どう》しても心から竹山に服する気にはなれぬ。酒を喰《くら》つた時などは気が大きくなつて、思切つて竹山の蔭口を叩く事もある位で、殊に此男が馴々しく話をする時は、昔の事――強ひて自分で忘れて居る昔の事を云ひ出されるかと、それは/\人知れぬ苦労をして居た。
野村は力が抜けた様に墨を磨つて居たが、眼
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