は十一時でなくちや帰りませんの。』
これは渠がよく遊びに行く芸者の宅《うち》で、蝶吉と小駒の二人が、「小母《をば》さん」と呼ぶ此女を雇つて万事の世話を頼んで居る。日暮から十二時過までは、何日でも此陰気な小母さんが一人此炬燵にあたつてるので、野村は時として此小母さんを何とか仕ようと思ふ事がないでもない。女は窓掛に手をかけた儘、入れとも云はず窓外《そと》を覗いてるので、渠は構はず入つて見ようとも思つたが、何分にも先刻程《さきほど》から気が悠然《ゆつたり》と寛大になつてるので、遂ぞ起した事のない「可哀さうだ。」といふ気がした。
『又来るよ。』と云ひ捨てた儘、彼は窓側《まどぎは》を離れて、「主婦《おかみ》はもう大丈夫寝たナ。」と思ひ乍ら家路へ歩き出した。
四角《よつかど》を通越して浦見町が、米町になる。二町許り行くと、左は高くなつた西寺《にしでら》と呼ぶ真宗の寺、それに向合つた六軒長屋の取突《とつつき》の端が渠の宿である。案の如く入口も窓も真暗になつて居る。渠は成るべく音のしない様に、入口の硝子戸を開けて、閉《た》てて、下駄を脱いで、上框《あがりがまち》の障子をも開けて閉てた。此室《ここ》
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