り》其硝子戸を開けて、腰を屈めて白木綿を潜つたが、左の肩を上げた其影法師が、二分間許りも明瞭《くつきり》と垂帛《カーテン》に映つて居た。
 此家は、三日程前に、職人の一人が病死して葬式を出した家であつた。


 三十分許り経つと、同じ影法師が又もや白木綿に映つて、「態々《わざわざ》お出下すつたのに何もお構ひ申しませんで。」といふ女の声と共に、野村は戸外へ出て来た。
 十間も行くと、旅館の角に立止つて後を振顧《ふりかへ》つたが、誰も出て見送つてる者がない。と渠は徐々《そろそろ》歩き出しながら、袂を探つて何やら小さい紙包を取出して、旅館の窓から漏れる火光《あかり》に披《ひら》いて見たが、
『何だ、唯《たつた》一円五十銭か!』
と口に出して呟いた。下宿料だけでも二月分で二十二円! 少くとも五円は出すだらうと思つたのに、と聞えぬ様にブツ/\云つて、チヨツと舌打をしたが、気が付いた様に急がしく周囲《あたり》を見廻した。それでも渠は珍らしさうに五十銭銀貨三枚を握つて見て、包紙は一応|反覆《ひつくらかへ》して何か書いてあるかと調べた限《き》り、皺くちやにして捨てゝ了つたが、又袂を探してヘナ/\になつ
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