得る事ばかり考へて居るが、若し怎《どう》しても夕飯に有付けぬとなると、渠は何処かの家に坐り込んで、宿の主婦の寝て了ふ十時十一時まで、用もない喫茶談《ちやのみばなし》を人の迷惑とも思はぬ。十五円の俸給は何処に怎《どう》使つて了ふのか、時として二円五十銭といふ畳付《たたみつき》の下駄を穿いたり、馬鹿に派手な羽織の紐を買つたりするのは人の目にも見えるけれど、残余《あと》が怎なるかは、恐らく渠自身でも知つて居まい。
餓ゑた時程人の智《かしこ》くなる時はない。渠は力の抜けた足を急がせて、支庁坂を下《お》りきつたが、左に曲ると両側の軒燈《ともしび》明るい真砂町の通衢《とほり》。二町許りで、トある角に立つた新築の旅館の前まで来ると、渠は遽かに足を緩めて、十五六間が程を二三度行きつ戻りつして居たが、先方《むかう》から来た外套の頭巾目深の男を遣過《やりすご》すと、不図|後前《あとさき》を見廻して、ツイと許り其旅館の隣家《となり》の軒下に進んだ。
硝子戸が六枚、其内側に吊した白木綿の垂帛《カーテン》に洋燈の光が映えて、廂の上の大きなペンキ塗の看板には、「小宮洋服店」と書いてあつた。
渠は突然《いきな
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