、影でもなければ、幻でもない。若樹の桜が時ならぬ雪の衣を着て、雪の重みに堪へかねて、ユラリユラリと揺れるのだ、ユラリユラリと動くのだ。が、野村の眼からは、唯モウ抱けば温かな柔かな、梅野でも誰でもない、推せば火が出る様な女の肉体だけ見える。
 何分経つたか記憶が無い。その間に渠の頭脳は、表面《うはつつら》だけ益々苛立つて来て、底の底の方が段々|空虚《からつぽ》になつて来る様な気分になつた。それでも一生懸命女を捉へようと悶躁《もが》いて居たが、身体はブルブル顫へて居て、左の手をかけた卓子の上の、硝子瓶が二つ三つ、相触れてカチカチと音を立てて居た。
 ガタリと扉が開いて、小野山が顔を出した。
『此処でしたか、何処へ行つたと思つたら。』
と、極りが悪さうにした顔に一寸眼を光らして、ヅカヅカ入つて来た。
『怎《どう》したんです。』と梅野へ。
『アッハハハ。』と、女は底抜な高い声を出して笑つたが、モウ安心と云ふ様に溜息を一つ吐いて、『野村さんが面白い事仰しやるもんですからね、私逃げて来たの。』
『何です、野村さん?』医者は妙に笑つて野村を見た。野村は、気が抜けた様に、石像の如く立つて、目には女を見
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