た儘、身動《みじろぎ》もせぬ。
『また催眠術をかけて呉れるからツて仰しやるの。』と女は引取つた。『そしたら私の行きたい所は何処へでも伴れてつて見せるし、逢ひたい人には誰にでも逢はせて下さるんですツて。だけど私、過日《こなひだ》でモウ皆に笑はれて、懲々《こりごり》してるんですもの。ぢや施《か》けて下さいつて、欺して逃げて来たもんだから、野村さんに追駆《おつか》けられたのよ。』
『然うでしたか。』
 野村は、発作的に右の手を一寸前に出したが、
『アハハハ。ぢや此次にしませう、此次に。此次には屹度ですよ、屹度|施《か》かけまよ。』と変に剛《こはば》つた声で云つて、物凄く「アツハハ。」と笑つたが、何時持つて来たとも知れぬ卓子の上の首巻と帽子を取つて、首に捲くが早いか飛び出して来たのであつた。


 脈といふ脈を、アルコールが駆け廻つて、血の循環《めぐり》が沸《たぎ》り立つ程早い。さらでだに苛立勝《いらだちがち》の心が、タスカローラの底の泥まで濁らせる様な大時化《おほしけ》を喰つて、唯モウ無暗に神経が昂奮《たかぶ》つて居る。野村は頤を深く首巻に埋めて、何処といふ目的もなく街から街へ廻り歩いて居た
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