の金具が佗し気に光つて居る。人気なき広間に籠る薬の香《にほひ》に、梅野は先づ身慄ひを感じた。
『梅野さん、僕を、酔つてると思ひますか、酔はないで居ると思ひますか?』と云つて、野村は矢庭に女の腕を握つた。其声は、恰も地震の間際に聞えるゴウと云ふ地鳴に似て、低い、沢《つや》のない声ではあつたが、恐ろしい力が籠つて居た。女は眼を円《まる》くして渠を仰いだが、何とも云はぬ。
『僕の胸の中を察して下さい。』と、さも情に迫つた様な声を出して、堅く握つた女の腕を力委せに引寄せたと思ふと、酒臭い息が女の顔に乱れて、一方の手が肩に掛る。梅野は敏捷《すばしこ》く其手を擦り抜けて、卓子《テイブル》の彼方へ逃げた。
 二人は小さい卓子を相隔てて向ひ合つた。渠は、右から、左から、再び女を捉へようと焦慮《あせ》るけれど、女は其度男と反対の方へ動く。妙に落着払つた其顔が、着て居る職服《きもの》と見分がつかぬ程真白に見えて、明確《さだか》ならぬ顔立の中に、瞬きもせぬ一双の眼だけが遠い空の星の様。其顔と柔かな肩の辷りが廓然《くつきり》と白い輪廓を作つて、仄暗い薬の香の中に浮んで、右に左に動くのは、女でもない、人でもない
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