しか見えなかつた。野村は一日として此三つの慾望に餓ゑて居ない日は無いので、一日として此病院を訪れぬ日はなかつた。
 渠が先づ入るのは、玄関の直ぐ右の明るい調剤室であつた。此室に居る時は、平生《いつも》と打つて変つて渠は常に元気づいて居る。新聞の材料は総て自分が供給する様な話をする。如何なる事件にしろ、記事になるとならぬは唯自分一箇の手加減である様な話をする。同僚の噂でも出ると、フフンと云つた調子で取合はぬ。渠は今日また頻《しき》りに其※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《そんな》話をして居たが、不図小宮洋服店の事を思出した。が、渠は怎したものか、それを胸の中で圧潰《おしつぶ》して了つて考へぬ様にした。横山助手は、まだ半分しか出来ぬと云ふ『野菫』と題した新体詩を出して見せた。渠はズツとそれに目を通して、唯「成程」と云つたが、今自分が或非常な長篇の詩を書き初めて居ると云ふ事を話し出した。そして、それが少くとも六ヶ月位かかる見込だが、首尾克く脱稿したら是非東京へ行つて出版する。僕の運命の試金石はそれです、と熱心に語つた。梅野は無論|其《その》傍《かた
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