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『野村さん/\、先刻お約束したの忘れないでよ。』と甲高い声で云つて玄関まで来たが、渠の顔を仰ぐ様にして笑ひ乍ら、『今度欺したら承知しませんよ。真実《ほんと》ですよ、ねえ野村さん。』と念を推した。これは此病院で評判の梅野といふ看護婦であつた。
渠《かれ》は唯唸る様な声を出しただけで、チラと女の顔を見たつきり、凄じい勢ひで戸外《おもて》へ出て了つた。落着かない眼が一層恐ろしくギラギラして、赤黒く脂ぎつた顔が例の烈しい痙攣《ひきつけ》を起して居る。少なからず酔つて居るので、吐く呼気《いき》は酒臭い。
戸外はモウ人顔も定かならぬ程暗くなつて居た。ザクザクと融けた雪が上面《うはつつら》だけ凍りかかつて、夥《おびただ》しく歩き悪い街路を、野村は寒さも知らぬ如く、自暴《やけ》に昂奮《たかぶ》つた調子で歩き出した。
「何を約束したつたらう?」と考へる。何かしら持つて来て貸すと云つた! 本? 否《いや》俺は本など一冊も持つて居ない。だが、確かに本の事だつた筈だ。何の本? 何の本だつて俺は持つて居ない。馬鹿な、マア怎《どう》でも可いさと口に出して呟いたが、何故|那※[#「麾」の「毛」に代えて「公の
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